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こんな管理職は滅びる
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中高年サラリーマンは知恵と感性を磨け、「今更…、」と思うな!
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社外の人脈を大切にする
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サラリーマンには「ムダ」と「遊び」が必要
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自分だけのプライドを持っているか
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管理されるサラリーマンにはなるな
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肉体のモーレツから精神のモーレツへ
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定期的に自分と会社のレポートを書く
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アピールカも能力のうちである
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ピンチに陥ったらどうするか
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巧妙な戦いが出来るサラリーマンになろう
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ベテラン度に逃げ込むな
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必要なハウツーは自分の体験からしか学べない
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中高年ホワイトカラーの仕事の意識改革が必要
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企業で生き残る人間は、ゼネラル・スペシャリスト
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団塊の世代は、いまこそ真剣に悩むときがきた
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団塊の世代はイノベーターを志せ
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若者も中高年の状況を他山の石とせよ
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40代、50代のサラリーマンは、自分だけのシナリオを描け
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会社における「自立」も一つの選択肢
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退職優遇制度で転籍・転職が促進される
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会社の能力再開発支援を活用せよ
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アクションプラン作成のポイント
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自己分析のポイント
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キャリア目標設定のポイント
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中高年・シニアの自立と、その準備
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厳しい現実を直視し「自立」を目指せ!
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中高年の能力とキャリアは、まだまだ伸ばせる
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変化に対応出来ない中高年サラリーマン
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中高年ホワイトカラーが生き残る方法
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中高年サラリーマン、これでいいの?
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依然根強い、中高年の会社依存志向
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切り捨てられる中高年・会社人間
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こんな管理職は滅びる
「察しの文化」はもう終わった
環境が厳しくなり、自己啓発のためにも勉強の必要性が高まっている。
しかし、「勉強が必要なことはわかっているし、その気持ちもある。ただ、忙しくて時間がない」と言う管理職も多い。
サラリーマンはたしかに忙しいが、忙しくて勉強する時間がないというのはフィクションにすぎない。
削ろうと思えば削れるムダな時間などいくらでもある。
その最たるものが、会社でのつき合いである。
管理職や会社人間は、会社でのつき合いや人間関係にのめり込みやすいし、むしろ自分から進んで忙しくしている面が非常に強い。
旧人類は「察しの文化」で育ってきた。
察しの文化とは、共通の体験と価値観が織。
上げる文化である。
毎日同じメンバーとしかつき合わないムラ社会独自の行動原理のようなものである。
日本のサラリーマン社会はムラ社会であったから、明噺な論理よりも察しのよさが貴ばれた。
腹芸のできる人間が重宝がられ、察しのよさがイコール頭のよさのよぅなところがあった。
世話役タイプが幅を利かせたのも、そうした理由による。
また、新入社員も入社三ヶ月もすると、「うちの会社は」と言い出し、それが一人前のサラリーマン意識の芽生え、組織への帰属心のように認知され、ムラ社会へ加わる通過儀礼のようにされた。
「うちの会社は」の大合唱のなか、仕事も遊びも会社の仲間と遠となり、察しの文化を維持する儀式、確認が盛んに行われた。
なかには、休日まで、まだ会社の仲間と会いたがるいささかホモ的な傾向が尭すぎるサラリーマンもいる。
サラリーマンは人との違い、差異を怖がる傾向が強い。
だから、会社でのつき合いを大事にした。
会社でのつき合いとは、ムラ社会の「察しの文化」にどっぷり漬かることでお互いを確認し、安心感を得る儀式である。
だが、これから求められる企業社会の人材とは、人との差異をあまり怖がらない人材だ。
端的な例が、会社でのつき合いや人間関係にのめり込みすぎない人間である。
孤立ではなく、自立したサラリーマンでなければならない。
と言っても、サラリーマンのつき合いや遊びを軽く見ているわけではない。
マージャン、カラオケ、一杯飲み屋とつき合いにもいろいろあるが、ストレス解消のためのつき合いや遊びは大事なことだ。
それと、ムラ社会の頻繁なつき合いとを同一視してしまわないことだ。
サラリーマンは自分流のストレス解消法を持つべきである。
ストレス解消が下手な人は、今日のようなストレス社会では確実に脱落していく。
なにも遊びをしない真面目人間ほど、ノイローゼになったり、うつ病になったり、出社拒否症に陥ったりしてしまう。
そうした事態を避けるためにも、現代のサラリーマンにはストレス解消は欠かせない。
グチもストレス解消法には有効なひとつだろう。
サラリーマンはグチ民族、ボヤキ種族である。
「サラリーマンはグチをあまりこぼすな」というような説もあるよよだが、私はグチをこぼしたことのないサラリーマンはあまり信用しない。
なにもやらなければ、グチもこぼれない。
グチをこぼす前には、そのサラリーマンはなにかをやったという前提がある。
グチをこぼすようなことをやってこそ、サラリーマンはー人前である。
そしてそのグチが、新たな闘争心の苗床になればいい。
ただし、同病相憐れむようなグチこぼしでは、情けないという気がする。
ゴルフというのも、サラリーマンの好きなストレス解消法だろう。
ただゴルフに関しては、3K削減のあおりを受けて会社の接待費で落とせる範囲も狭くなってきているし、おまけに日本のゴルフ場の会員権は、外国ではゴルフ場が買えるほど高い。
バブル当時「銀座で接待するぐらいなら、ゴルフのほうが安上がり、それに健康にもいい」という考えが、猫も杓子もゴルフに駆り立てた側面があるが、最近、法人向けのゴルフ場は人が閑散としている。
東京周辺では身銭を切ってゴルフをやれば、二回で3〜4万円はふっ飛んでしまう。
ゴルフはふつうのサラリーマンのストレス解消代としては高すぎる。
猫も杓子もゴルフというのは、交際費に寄りかかった日本のサラリーマンの典型的な構図だと言えるだろう。
それに、同じストレス発散の目的でゴルフをするのなら、会社以外の気の合った仲間とプレーするほうが、はるかに目的にかなう。
ラウンドしながらも会社のことを話題にし、部下を話題にし、業績に思いを馳せていたのでは、かえってストレスをよけいに抱え込んでしまうだけだ。
ストレス解消のために会社の仲間とすごす時間が欲しいとすれば、せいぜい一週間に1、2回で十分ではないか。
極端な話、昼食後のコーヒータイムで十分可能である。
だいたいが、一時間で話が終わらないようなグチならば、それはもう積極的なグチではない。
あえて言えば、グチのためのグチのようなものだ。
「きみも大変だね」と言ってもらいたいために、自分の置かれた境遇を自己正当化しているようなものだ。
ストレス解消の策は、なにも会社の同僚がいなくてもできる。
ヒーリング・ポイント(癒しの場)は、自分一人でも発見できる。
仲間が欲しければ、会社の人間が知らない自分が主役になれる酒場でも見つければいい。
そこで会社以外の仲間を見つけたほうが、はるかにストレス解消になるというものだ。
話がそれてしまったが、サラリーマンはたしかに忙しい。
だが、会社の都合にふりまわされていただけではあまりに空しい。
やる気になれば、勉強する時間などいくらでもある。
誤解を恐れずに言えば、忙しいふりや会社への忠誠心ごっこ、察しの文化への奉仕をやめれば、そのための時間はいくらでも捻出できる。
会社での察しのコミュニケーションは大変なエネルギーを必要とする。
それだけでもうへトへトになってしまう。
まともに勉強する時間などとれるわけがない。
しかし、新人類の登場で、察しの文化はもう崩壊している。
新人類はそうした文化を拒否しているし、はっきりしたコミュニケーションを求めている。
言ってみれば、「直視の文化」を求めている。
新人類とのコミュニケーションは、ノンバーバル(非言語)なコミュニケーションでは成立しない。
もう少しきちんと言葉を使った論理のコミュニケーションを心がければ、中高年と団塊の世代が、一杯飲み屋で察しの文化の黄昏を嘆くことも減る。
夜の暇な時間などいくらでもできる。
中高年サラリーマンは知恵と感性を磨け、「今更…、」と思うな!
価値観の群化と大衆という概念が崩壊した情譜、ソフト化、サービス化時代は、極言すれば、個人の能力差がより鋭い形で、ドライに出てこざるを得ない。
そこでは、既存の組織や観念に縛られない人間のアイデアや発想力が大きな価値を持つ。
鋭い感性と他人と差別化できる知恵を持っている人は突出した存在になれるし、過去の知識にこだわったり、自分の感性を磨くことを怠った人間は先頭に立つことなど望むべくもない。
このドラスチックな変化を他人事のようにぼんやり眺めているサラリーマンは、確実に競争から取り残されていく。
いわゆる企業戦士といわれた人びとは、極言するようだが、知恵の部分をあまり鍛えない仕事の進め方でよかった。
過去の延長線上で仕事をすることを叩き込まれ、慣らされ、しっかり身についてしまった。
むしろ慣例がないこと、前例のないことはしてはいけなかった。
慣例のないこと、前例のないことは、みなアメリカがやってくれた。
明日を考える場合でも、今日の延長線上で論理的に発想していた。
いわば、足し算の世界で物事を発想していた。
しかし、いまはとんでもないところからとんでもないものが生まれ、時代をリードしていく。
論理よりも感覚的なものがないと、明日はもうつかめなくなっている。
論理は時代を解釈しかしないが、すぐれた感性は時代の全体像を把握する。
高度成長期は、努力と成果が一致していた。
決まり切ったものを作れば売れたし、儲かった。
大量生産し、販売に馬力をかければ売れた時代であった。
しかし、勝負どころが変わり、企業の生命線は、どう大量に作るかから、なにを作るか、いかにいいものを作るかに移っている。
努力のしどころが180度転換して、額に汗をして働く時代から、「心で汗をかく時代」になった。
サラリーマンのアイデンティティが、組織の一員であることから、個人としてどう生きるか、個人としてどう個性を発揮するかという変化を遂げた。
社員が知恵を出せない会社は生き残れないし、知恵を出せない社員は仕事を与えられない時代になってきた。
そうした現実を前にして、いままであまり知恵を必要とされず、管理と組織調整能力だけを磨いてきた管理職タイプは、右往左往せざるを得ない。
あれほど高度成長期をワッショィ、ワッショイと高声をあげてかけのぼった企業戦士が、知恵や感情の時代だといわれた途端、人変わりしたようにおとな36しくなっている。
中高年のサラリーマンは、いまさら知恵を出せと言われても、どうすればいいのかわからない。
問題処理には長けているが、問題を作っていく訓練はされていない。
いたずらに悲劇的になるだけである。
どうすれば知恵が出るのかと悩んでも、知恵とはこうすれば出るという性質のものではない。
哲学者でもないのだから、「知恵とはなにか」と考え込んでも答えは出てこない。
ましてや、「どんどん感性が磨ける」とか「どんどん知恵が湧いてくる」とかいったハウツー本に走っても、どうなるものでもない。
ところが旧人類である中高年には、これがなかなかわからない。
努力が黄金律であった感覚がなかなか払拭できない。
努力万能時代の考えからなかなか抜け出せず、まだ自分の努力が足りないのではないか、努力すればなんとかなるのではないかと思ってしまう。
そこでこれだけ「知恵の時代」や「感性の時代」と騒がれていながら、ついつい「地獄の特訓」のようなものに救いを求めるような方向違いのことをやってしまう。
感性や知恵の時代の特徴というのは、人それぞれの能力差や特技の違いのようなものをできるだけおおらかに認めることである。
それが、実力主義の時代の在り方である。
ところが「地獄の特訓」とは、その正反対の思想である。
能力的な差や人間的な差を否定し、鋳型に押し込もうとする。
ろくな睡眠時間も与えず、発想力や創造力が活躍する余地を狭め、自主性をうばい、小管理者イズムを植えつける。
知恵や感性が発揮されるはずもない。
知恵とか感性とは、前にも述べたように、個人的なものである。
ロボットではないのだから、まったくそれを持たない人間というものは存在しない。
程度の問題はあるだろうが、古い観念が重石になってその発露を妨げている場合もある。
自分には感性がないと決めつけてしまわずに、とりあえず、その重石を取り外してみることだ。
「会社は」という発想をやめて、「自分は」という発想に切り換えてみてはどうか。
簡単に言えば、好きか嫌いかをもう少し大事にしてみることだ。
多少は、自分の知恵と感性というものが見えてくるかもしれない。
しかし、もう知恵とか感性で勝負する自信はない、窓際もなんでもいいから会社に残れればいいという中高年もいるだろう。
仮にそうした幸運に恵まれたら、それで定年まで無為にすごすのではなく、その暇を有効に使って欲しい。
勤めている会社で暇になったら、いろいろと多方向の分野のことに挑戦して欲しい。
二足も三足もワラジを履けばいい。
窓際族がダメになるのは、会社で暇で、会社以外でも家庭でも暇がありすぎるからである。
窓際族でもしたたかな人は、会社では暇だが、外では忙しいものである。
けっして牙を抜かれていない。
オイルショックのときでも、そのへんがきちんとわかっていた人は、したたかに勉強していた。
ヨコの社会での忙しさを通じて生き甲斐を苦し、大学教授や有望な転職先へと移動していった。
そういう面で、タテの会社関係とヨコの社会のどちらでも忙しい人が、本当にしたたかなサラリーマンということになるだろう。
私は、中高年のサラリーマンには、「いかにこの時代を生き延びていくか」というしたたかさを大切にして欲しいと思う。
そして次なる二毛作人生へのステップをうまく踏むために、いまの生活のなかから、自分の生き甲斐を再発見する努力を惜しまないでやって欲しいと思う。
要は好奇心と人生にチャレンジする若さをいつまでも失わないことだ。
知恵や感性に、年齢はあまり関係がない。
感性豊かな人間とはそういうタイプである。
社外の人脈を大切にする
効率と要領のよすぎるサラリーマンは、かえって限界がある。
自分の伸びるフィールドを狭め、窒息状態に陥ってしまう。
いざというときの対応もできない。
サラリーマンにとって、未来とは現在である。
未来とは空想の産物でもなければ、ただ漫然と待っていれば姿を現すものでもない。
いつかやってくるものと待っていれば、ただ空しく時間だけが過ぎていく。
時代に取り残されていく。
平たく言えば、いま現にやっていることのなかにしか未来はない。
それも、いまはムダと思えるようなもののなかにしか未来は期待できない。
未来を求めるならば、一刻も早く「ムダで終わる覚悟を持った現在」を作るしかない。
遊びもし、よけいな勉強もし、会社以外のいろいろな人間関係を持つことは業務には直接跳ね返ってこないかもしれない。
しかし、それをやっている人だけが初めてそれによって伸びることができる。
同じことを懸命にやっているだけでは、進歩はない。
発想を変え、新しい知恵を生み出すことが大事である。
新しい知恵や創造性は、思考や価値観の対立からしか生まれてこない。
同じ考え、同じ知識、同じ気分のサラリーマン同士が集まって、「キミもそう思うか。実はオレもそうだ」などとマスターベーションをやっているようでは、とてもクリエイティブなのびやかな発想など生まれてこない。
情報の相互確認からは、発想の芽は生まれない。
創造性のベースになる情報とは、二つ以上の違った意見である。
二つ以上の情報がぶつかることによって、新しい視点や新しい発見が得られ、創造性が刺激される。
そこで重要になるのが、会社を超えたヨコの人脈、外部のネットワークである。
一般的に言って、サラリーマンは、ヨコの人脈づくりが苦手である。
ヨコの人脈とは、一人前の社会人としての人間関係だから、あくまでギブ・アンド・テイクの部分を持つ。
ここが昔の学生仲間や地域の仲間、会社の同僚や上司、部下のようななじみの人間関係とは根本的に違うところだ。
いままでのサラリーマンは、社内にどれだけ自分の応援団を持っているかが大きな勝負だった。
ムラ社会の出世競争だから、上を向き、下を懐柔し、ヨコと手をつないできた。
悪く言えば、実力競争ではなく、気配りと人気競争、人格競争だけをやっていたような気がする。
これもすべて否定するわけではないが、その努力の半分を社外へ向けてみてはどうだろうか。
これからのサラリーマンの器量の一つは、会社の外部にどれだけ自分の応援団を持っているかである。
外部に確かな人脈とネットワークがあると、自信を持っているサラリーマンもいる。
しかし、会社を出たとたん、頼りにしていた人脈が意外になかったケースも多い。
それは、個人の魅力と会社の看板を錯覚し、ヨコ人脈の本質を見誤っていたためである。
とくに大企業の部長クラスあたりに、そうした非喜劇がきわめて多い。
大変な仕事の人脈があるように思っていざ独立してみると、それが大いなる錯覚であったという例は枚挙にいとまがない。
情報を取るためには、与える情報を持っていないとならない。
人脈を広げようと思ったら、自分に魅力がないとならない。
そのためにも、「自分のため」ということをもっと大事にすべきである。
人脈を広げるためにも、日常的に自分に魅力をつける努力をしないとならない。
それがひいては会社のため、家庭のためにもなると逆発想していくべきである。
「滅私奉公」から「活私活業」へと、発想を変えないといけない。
そこで私は、45歳ぐらいから、会社の肩書きなどとはいっさい関係のない名刺を持つことを勧めている。
個人の名刺でどこまで通用するか、一つ実験してみるのだ。
最初は見向きもされないかもしれない。
しかし、そこでメゲてはいけない。
それは当然のこととして受け止め、では通用するにはどうしたらいいかと努力すればいい。
そこから新しい人脈が生まれ、自前のコミュニティが生まれてくる。
本当の自分が裸でつき合える仲間社会や自分流のネットワークが手に入る。
私は、サラリーマンは超二流サラリーマンを目ざすべきだと思う。
いまや、世界に超一流国はない。
辛うじてアメリカだけが一流国の地位にぶら下がっているにすぎない。
一流国というのは政治・経済・軍事の三拍子が揃わないとなれないものだし、日本は経済分野で力を持つ超二流国で十分ではないか。
日本は超二流国を目ざしていけばいい。
国が超二流を目ざすのであれば、サラリーマンも超二流サラリーマンで十分だ。
ただし、超二流とは一・五流ということではない。
一・五流とは一流に比較して下位の概念であるが、超二流とは本来は二流であるがそれを超えるという意味である。
なまはんかな努力では、なかなか実現できない。
厳しい厳しいとグチばかり言わずに、自分の価値観に力点を置いて考え、自分の生き甲斐のために働き、自分のために忙しくする時代である。
自分のための投資もし、遊びもし、勉強もする。
そして超二流サラリーマンを目ざす。
私はそれを、「個人忙しの時代」と呼んでいる。
サラリーマンには「ムダ」と「遊び」が必要
「経済大国」と言い、永遠の繁栄を極めるかとも思われた日本は、巨額の貿易黒字を計上し続けてきたが、それを支えたサラリーマンには豊かさを実感として味わう暇さえなかった。
ベネチアは400年、オランダも100年の繁栄を享受し、文化的にも多くのものを残したが、さて日本のうたかたの経済繁栄はなにを残したのだろうか。
「生活大国五ヶ年計画」というものがあったが、あのビジョンはどこへいってしまったのだろう。
「豊かさとはなにか」「豊かな生活とはなにか」と、一時期さまざまに論議された豊かさの正体すら垣間見ることなく、暗い時代に突入してしまった。
家のローンと子供の教育費でキリキリ舞いし、さらに、失業の危機すら身近に迫り始めている。
その家ですら、ウサギ小屋と椰輸されるような代物でしかない。
会社のために、家庭のためにと日々戦ってきたサラリーマンは、それ以外に生き甲斐はない。
だがここには、サラリーマンの危険なナルシズムが潜んでいる。
生き甲斐を会社から与えてもらうとか、嫁さんと子供から与えてもらうとかいった気持ちの裏には、自分を犠牲にしていたというナルシズムがある。
「会社のためにオレはここまでやってきた」
「子供や妻の幸福のために、自分を犠牲にして頑張ってきた」
という自己犠牲、自己正当化の考えはあっても、「自分のために」という発想はなかった。
ところが、会社からはもうそうした忠誠心は不必要と言われ、家庭では「亭主元気で留守がいい」と言われて、もう行き場がなくなっているのが会社人間だ。
退職後にいたっては、粗大ゴミ、産業廃棄物などというまことに失礼な言い方まで一般的になっている。
少々残酷な言い方になるかもしれないが、会社にしても家庭にしても、実は犠牲にしたなどとは思っていないのである。
会社というものは、利益追求が本来の目的である。
そのために忠誠心を鼓舞することはあっても、過剰適応したサラリーマンの生涯責任まで負うものではない。
家庭でもそうだ。
家庭サービスもせず、「会社、会社」を繰り返す亭主にどれほどの価値を認めているか。
「今度は私が好きなことをさせていただきます」と、女房のほうから通告される定年離婚が激増していることを見ても、それは明らかではないか。
工業化時代を支えた終身雇用と年功序列の大きな特徴は、自分に対する投資がまずほとんどと言っていいほど必要ないことである。
そのなかで、サラリーマンは、自分に対してあまり投資をせずにやってこられた。
それですんだ、それでも偉くなれた。
ヨコ並び意識、ご同輩意識を大事にし、みんなで手をつないで同じことをやっているのがいちばんよかったし、それで十分でもあった。
自腹を切って社外ネットワークを広げる努力より、会社のなかで自分を引き上げてくれるキーマンに擦り寄り、人脈を作るほうが得策であった。
上を向いて適当にヨイショをやり、早く部課長になって交際費が使えるようになれば、同じ志向の人間が周囲に集まってもきた。
しかし、ソフト化、サービス化時代の本格的到来を迎え、そうしたサラリーマンの処世が通用しなくなってしまった。
もともと日本人は、明治以来の日本的教育システムによってモノづくりに向くように育てられてきたため、ハード的価値を生み出すことには非常に強い。
○×式の二者択一テストに洗脳され、あらかじめ正解に至る道が決まっている問題には強味を発揮してきた。
たとえて言えば、算数には強いが、正解への道がいくつもあり、発想力が要求される数学には弱い。
ムダとか、ゆとりとか、遊びの分野が非常に弱いため、発想や創造性を基礎にしたソフト的価値の創造には弱い。
これからのサラリーマンに大事なことは、時代の価値観や技術の変化に対する知的想像力であり、感性である。
そうしたものへの投資である。
マーケティングにしても、営業にしても、企画開発にしても、その思想ややり方や戦術が変わったとき、古い成功者ほどたいてい無能ぶりを発揮する。
同じ戦略や戦術が、10年も20年も通用するはずがないのに、一度味わった成功体験に固執し墓穴を据ってしまう。
これからの企業は、新しいことに直面し、新しいことを、新しいやり方でやっていかねばならない。
効率が極度に追求され尽くした分野には、もう大きな期待を賭ける果実はない。
いままであまり目を向けていなかったところにこそ、次代のニーズを見つける必要がある。
それが企業生き残りの策である。
効率のよすぎる会社はかえって脆いという逆説はそこにある。
明日への挑戦部分があるからこそ、企業は新しい未来に向けて成長していける。
ムダな部分を排除して、なんでも効率、効率でやってきたツケが酸欠社会を招き、失業者の増加におびえる状況を作ってしまった。
サラリーマンの場合でも、同じことだ。
企業で「ムダが活性化の源」であるのと同様、個人では「遊びは真面目の活性化」である。
真面目の上に真面目を重ねていったら、その人は、勤勉な怠惰になる。
サラリーマンには、自分の業務に関する専門能力ももちろん大事だが、むしろよけいなことをどれだけ知っているか、ムダなことをどれだけ知っているかということが要求される。
その余力がこれから本当に企業に必要とされる能力なのである。
そのためにはもっと自分に投資しなければならない。
自分のためにムダをやっていないとダメなのである。
自分だけのプライドを持っているか
会社に忠誠心を持ちすぎる社員にかぎって、いざ肩叩きされたり、左遷されたり、子会社への出向を命じられたりすると、「なぜオレだけが」「これだけ会社のために尽くしてきたのに」と会社を恨んだり、反感を持つ傾向が強い。
そういう悲劇を未然に防ぐために、会社本位の古い忠誠心から新しい忠誠心へどんどん比重を移行させていくべきである。
新しい忠誠心とは、まずなによりも、会社へではなく自分の仕事への忠誠心である。
しなやかな忠誠心と言ってもいい。
そのためにいちばん大事なことは、自己に忠誠心があるかどうかである。
自分の人生に忠実な人間であるかどうかである。
というのは、人生に対して誠実な人間が、会社でやはりいい仕事をするからだ。
自分の人生への洞察なくして、表面的にだけいい仕事をするなどということはまずあり得ない。
ワンパターンのサラリーマンの処世術、昔ながらのサラリーマン処世術はもう破綻をきたしている。
これまでのパターン化されたサラリーマン術は通用しない。
自分のプロフェッショナルな部分は、会社に庇護されなくてもなんとかやっていけないとならない。
多少そういうものがないと、会社から見放されたらもうどうしていいかわからないという状態になってしまう。
好むと好まざるとにかかわらず、サラリーマンは、これから自分の生き方をどうするか、どういうスタンスをとるべきかということが問われる。
「会社に尽くす」ということより、「自分にとっていいこととはなにか、そしてそれが会社にとってもいいことであるためにはどうすべきか」ということが問われる。
「あなたはどういう存在か」ということよりも、「あなたはなにができるか」「あなたはなにをやろうとしているのか」という可能性のレベル、本当の生き甲斐が問われるということである。
そのためには、どこかに自分だけのプライドを持つことが大事である。
プライドというものは、生き甲斐を考えるうえで、非常に大事なものである。
私は、お金儲けや、いわゆる出世主義を一概に否定しない。
それは、地位、ポストとかお金を儲けることは、プライドとしていちばん簡単に満足しやすいことだからである。
サラリーマンは誰にでもなれるものである。
一番なりにくい職業が政治家であると見ている子供が多いというデータを目にしたことがある。
誰にでもなれるサラリーマンであれば、なおのこと、自己啓発したり、努力したり、なにか目標を持つことが大事である。
それでなければ、ただいたずらに歳月に流されて人生の終着点を迎えたときに、「オレの人生はいったいなんだったのだ」ということにもなりかねない。
出世願望を悪のように言う人には、自分の能力のなさを他人に転嫁して「人を見る目がない」とかボヤき、自分からはなにもしようとしない人に案外多いものだ。
また、出世願望というものが企業のバイタリティになっている面もある。
伸びている企業には、社長になりたい人材がいくらでもいる。
係長、課長、部長、重役になって自分の能力を発揮したい人がたくさんいる企業は伸びるが、その反対の企業は成長が止まっている。
そこそこで満足しているサラリーマン会社の典型のようなところは、まずバイタリティがない。
バイタリティがない会社はどうやっても伸びようがない。
これだけ競争が激しい時代になると、終身雇用とか年功序列どころか、企業の存立自体がまず問題になる。
出世主義の話が長くなるが、言いたいのは、出世レースのマイナス面ばかりを見るなということである。
出世でもなんでもいい。
とにかくなにか目標を持って進んでいくことによって、いろいろと覚え、したたかな人間に鍛えられていくということである。
サラリーマンというのは、自分の目標を立て、自分の信念を持ち、ともかく人と一緒に会社というムラ社会のなかで懸命に仕事をするが、どこかに自分は自分だ、自分流のやり方でなにかを実現したいというものがなければならない。
仮にそれが出世レースであれば、それに邁進しても一向に構わない。
それが好きなサラリーマンはそういったことに走ってもいいと思っている。
もっとも出世のためには政治力、危険をつかむ嗅覚、危険を避ける才覚、処世、適度なゴマスリなどのいろいろなものが大事だが、ただしこうしたものはしょせん手段だという自覚を持つことが大事である。
政治力、ゴマスリといったものはなかなか魅力的だし、うっかりすると目的になってしまいやすい。
それが目的になってしまったら、会社から「もういらないよ」と言われたら、それで御用ずみになってしまう。
いまの社内でしか通用しないものをいくら誇っても、外の世界ではまったく通用しない。
だからそうしたものを目的化してはいけないし、地位、ポストを得ることも目的化してはいけない。
出世のために出世するのではなく、自分の能力を伸ばしていく、自分の夢を実現するための手段だと考えねばならない。
そこのところを誤ると、燃え尽き症候群にかかってしまう。
しかし、それができないサラリーマン、あるいはそういうものではとてもプライドが満たせないサラリーマンは、自分なりの誇りを見つけるべきである。
幸い、現在のような豊かな時代ともなれば、サラリーマンのプライドを満足させる選択肢はいくらでも生まれてきている。
仕事でいえば、スペシャリストで生きるとか、会社よりも自分の仕事や仲間、家庭を大事にするとか、趣味の世界を大事にするとか、二足も三足もわらじを履くとかいろいろなやり方がある。
これからのサラリーマンに必要なことは、TQC的思考の穀を脱ぎ、自分という個性をどう出していくかである。
言ってみれば、オンリー・クリエイティブニブイフをどう作っていくかということだ。
とは言っても、中高年サラリーマンの心の奥底には、TQC神話が静かに潜んでいる。
中高年はTQC思考のなかで呼吸し、それなりの成果が得られたからである。
会社を離れた生き甲斐を持とうと言うと、TQC手法を用いて生き甲斐探しを始めてしまう人もいる。
40代、50代ともなれば、独り歩きできる訓練をしないといけない。
全員で集団登山するのではなく、独歩行で登山ができる訓練をしないといけない時期である。
それがわかっていても、生身のサラリーマンはなかなかできない。
しかし人生80年時代ともなれば、まだまだあと何十年と現役でいる。
サラリーマン退役後の時間のことも考え、ここでもう一度、勉強をやり直しても遅くはない。
もちろん会社を代わるのも結構だ。
ただ、どこへいっても通用する人間になって欲しい。
その意味で、言い古された言葉だが、企業は人づくりの道場である。
管理されるサラリーマンにはなるな
多元化人間、複眼人間が求められている
サラリーマンにとって、なにかと生きにくい時代である。
とくに、昔のサラリーマン処世が身についてしまっている年輩の社員には、その処世があまり通用しないだけに厳しい現実だろう。
だからと言って、諦めてしまうのは早すぎる。
サラリーマン処世を先天的に身につけた人などいないし、やり直そうとすればまだ可能である。
さらに、自分に自信のある人間、能力に自信のある人間、柔らかな思考のできる人間は、たとえ中高年でも飛躍の余地は十分にある。
日本が繁栄を謳歌した工業化社会は、人間の能力や個性といったもの、個人の主張や労働の多様な価値観といったもの、そして遊びやゲーム感覚を軽く見すぎていた。
シェア至上主義、大量生産、大量販売主義をベースにした日本的経営は、変化の荒波にもまれ、価値観の多様化に翻弄され、大きな問題点を抱えていることが白日の下に晒されてしまった。
人間の能力や個性を軽く見た思想の代表は、TQCである。
TQCは本来、ムダを排除する合理化の有力なコントロール手段であり、商品の品質管理をめぐる手段にしかすぎないのだが、日本の企業は、これを研究、開発、営業といった創造性や柔軟性を要求される非計量的な世界にまで導入した。
TQC神話が企業を覆い、コントロールのシステムをマネジメントとはき違え、経営の最後の砦のように錯覚した経営者が多かった。
外へ向けてのものやサービスの価値創造が経営の本筋にもかかわらず、生産性の向上という手段が企業本来が持つべき目的と倒錯してしまった。
さらに、品質管理以外にも、TQCには従業員一体化への有効な旗振り手段という側面もある。
会社人間ほどこれを熱心にやりたがった。
全員のガンバリズムほど旧人類の好きなものはないからだ。
こうして生産現場だけでなく、ホワイトカラーまでも生産性第一主義、画一集団主義に取り込まれていった。
組織の成員全員が同じ価値観や倫理観、使命感を持つことは、ソフト化、サービス化社会では決してプラスにはならない。
まったく同じ価値観や倫理観を持たないまでも、日本企業では、ある程度の予定調和的な意志決定方式が普通である。
「こういうふうに言っておけば賛成が得られるだろう」とか「自分の意見を通すために、本当はこうしたいのだがこの部分は削っておこう」といったやり方がそれだ。
こうした方法が蔓延しているかぎり、個性的な提案や非常に秀抜な能力など出てはこないし、変化変身への相互抑制の壁はきわめて厚い。
また、ムダの排除を徹底的に推し進めれば、最終的には、人間がいちばんムダということになる。
落語ではないが、ムダを切り捨てているうちに、最後には自分がムダではないかという結論に達してしまうこともある。
そういう自家撞着の怖さがムダの排除にはある。
さらに管理すれば人は働くといった誤った偏見がある。
サラリーマンは管理されればされるほど、それに身を委ねて安心するだけである。
有能なサラリーマンほど、TQCの限界を知っている。
それに、定められた枠組みに身を合わせて生きていくぐらいの知恵、したたかさを持っている。
ただ、会社がその有効性に目がくらんでいるうちは、その流れに乗っていたほうが楽だから、軽々と乗っていたにすぎない。
哀しいのは、そうした意識を持たなかったTQC信者である。
もちろんTQC活動がすべて無意味であるとは言わない。
そこに欠けているのは、高付加価値時代、ソフト化時代には不可欠の知的感受性である。
TQC程度で人材の活性化ができることはまずない。
いまや、多元化人間、複眼人間が要求されている。
個人の能力が厳しく問われている。
これは企業にとってそうであるだけでなく、サラリーマンが人生80年時代を生き抜くためにも必要なことである。
人材は規格品ではない。
ムダなことを避ける社員、組織によく摩擦を起こす社員、従来の常識からすれば不良に近い社員なども、品質管理上の欠陥商品ではない。
むしろこれからは、よけいなことをする社員、組織に摩擦を起こす社員、飛んでもないことを夢見る社員こそ会社を伸ばしていくのだ。
だからこそ、能力のある人、個性のある人、人に仕えるだけのサラリーマンであきたらなく思っている人材にとってはチャンスである。
これは年齢にかかわらない。
若者だけでなく、自分に自信がある中高年にとっても、チャンスは十分にあるということである。
新しい時代のウォンツや価値のうねりは、生産性至上主義の地図にはない。
効率という磁場に、価値や能力というものは反応しない。
いつまでもTQCの幻想にとらわれていては、時代の要請から遠く離れたところにたたずむしかない。
まるで羅針盤を失った船のように、荒々しい波間で沈没を待つしかない。
肉体のモーレツから精神のモーレツへ
中高年の間に、肩叩きから逃れるために「ほほえみうつ病」が広がっていると言う。
自分の弱味、不安感を隠すために、つくろってほほえむ「軽度うつ病」の一つである。
90年代初頭にも増して、これからの時代はサラリーマンにとってますます厳しさを増す。
会社は簡単に伸びないし、地位、ポストもかぎられてくる。
終身雇用もあと5年持てばいいほうだろうし、配転や出向も日常茶飯事化する。
会社大事の使命感を振り回しすぎる社員にかぎって、自分にとって不都合な人事に傷つき、会社に深い恨みを残すことになる。
一度厳しくなったサラリーマンの環境は、多少の景気回復などでは好転しないだろう。
景気うんぬんではなく、サラリーマンの存在自体に根本的変化の潮流が押し寄せているという乾いた認識が必要だ。
そうした局面では、精神のモーレツが要求される。
高度成長期は肉体のモーレツ時代だった。
経済の成熟化とソフト化、サービス化という産業構造の転換期には、肉体のモーレツより精神のモーレツを持たねばならない。
個人のハートのスタミナ、精神的なバイタリティが大事になる。
企業戦士といわれる人々は、働き盛りを高度成長期のなかですごしている。
肉体のモーレツな経験はしても、本当のピンチというものは経験していない。
だから、ハートのスタミナが乏しく、孤独にきわめて弱い。
環境の激変に遭うと、立ちすくんでしまうばかりだ。
いま中高年が直面し立ちすくんでいる大きな問題とは、忠誠心の空洞化である。
「なにごとも会社のため、会社あっての自分」という一社一心の健気な忠誠心が、平成不況で最後の一撃を受けようとしている。
実はこうした忠誠心は、オイルショック時や円高不況時の減量経営で現実的基盤を失いかけていたのだが、その後の平成景気で、労使ともその無用性を一時棚上げしていたものだ。
より正確に言えば、日本的企業風土のなかでは、この間題に触れずにおいたほうがお互いに気まずくならずにすむという事情もあった。
中高年の間には、ひょっとしたら事情が好転することがあるかもしれないという淡い幻想を抱いている人がまだいるようだが、それはまさに幻想にすぎない。
会社人間の健気さはよくわかるが、会社というものは、本人が思っているほど、「個人の会社思い」を評価しないものである。
多分に会社からなめられているところがある。
いいように会社に使われ、無事に勤め上げても「ご苦労さん」で終りである。
思えば、滅私奉公型の忠誠心が成長の推進力であり得た高度成長期は、サラリーマンの黄金時代であった。
だが忠誠心がそのおおらかさと純度を失い、生き残りのため、組織にしがみつくための処世術という、切ないいびつな形に変形してしまった。
日本の企業組織は、チームワークが非常に有効な形で威力を発揮した組織形態であり、サラリーマンは人間関係、それも集団の人間関係でほとんどの仕事をしてきた。
他人との差異をセールスポイントとし、自分は自分だというところが意外に少なかったし、またそういう人間はサラリーマン不適格の熔印を押されたりもした。
「協調」が貴ばれる社会ではよくあることである。
その結果、集団を離れての自分のための心の拠り所がサラリーマンにはあまりない。
自分というアイデンティティが非常に稀薄になってしまった。
だから、会社という他人様が与えてくれた課長とか部長、重役とかいった地位、ポストがアイデンティティになったり、会社の看板や名刺、バッジがアイデンティティになったりもした。
ハートのスタミナとは、別の表現をすれば他人様から与えられたものではない、自分流の心の拠り所、つまりアイデンティティをもっているということである。
会社と地位、ポストにしかアイデンティティがないというのは、心の防衛策としては最低、最悪である。
武装もせず、戦場に赴いているようなものである。
会社が倒産するしないは別として、そうしたアイデンティティとも呼べないような拠り所は、なにかの失態で一瞬にしてなくなってしまう。
たとえ自分と直接関わりのない失態であっても、管掌すべき地位にあれば、責任を問われて取り上げられかねない。
また、定年を迎えれば、会社という他人様が与えてくれた生き甲斐は当然お返ししなければならない。
恵まれた人は若干の猶予期間を与えられるかもしれないが、それにしてもいつかはお返しするものである。
日本のサラリーマンは、仕事が忙しいから、身体はある程度鍛えている。
勉強していないと生き残れないから、ある程度頭も鍛えている。
しかし、肝心の精神だけは、あまり鍛えていない。
バイタリティというのは、肉体的なものだけではない。
精神的なバイタリティというのも非常に大きい。
環境が厳しくなればなるほど、この精神的なバイタリティが大事になってくる。
精神的な強さは鍛えないと強くならない
身体はいじめられることによって鍛えられていく。
強いものになっていく。
精神面でも同様だと思う。
心も多少いじめて鍛えないと、丈夫にはならないし、スタミナもつかない。
保護し、真綿にくるむようにしていれば丈夫になり、鍛えられるという性質のものではない。
30代、40代の人間は、これから本格的ポストレス時代に生きなければならない。
ポストレスと言っても、いろいろなチャレンジの分野はある。
寄らば大樹の陰でやっていければ楽だが、どう考えても、もう寄らば大樹の陰のサラリーマンの時代は終わる。
30代、40代の人間は、いまのうちにピンチを経験しておくといい。
むしろ意識的に、2回とか3回とかピンチを引き受けたほうがいい。
あるいは、ピンチに遭遇したら喜んだほうがいい。
ピンチとは、自分を見つめることである。
自分を見つめるときははっきり見つめたほうがいい。
そうすることによって、ハートが強くなっていくし、ハートのスタミナが鍛えられていく。
自分が鍛えられていく。
ハートにスタミナがつけば、度胸も座るし、決断する際にも効力を発揮する。
判断力というものは、たいてい誰でも持っている。
そこから決断力に持っていくのが難しい。
決断というのは、ある一つの選択をすることで、他のすべての選択肢を放棄することである。
自分でもなかなか判断のつきにくいところに自分を賭けることであり、どこかに野蛮なところがある。
「決断とは、知力が冒険を呼び起こし、意志を発動させるものである」
クラウゼヴィッツはこう喝破している。
勝海舟は、これを肝識とよんでいる。
また、決断を実現させるためには、部下に対して、多少強引であってもねじ伏せていくような力がいる。
「知的腕力」「知的度胸」とでも言うべきものだが、その「知的腕力」「知的度胸」も、精神的に打たれていく過程でしか鍛えられない。
もちろん性格もあるだろうが、打たれ、痛めつけられていくことによって鍛えられていく部分が非常に大きい。
現代は、企業もサラリーマンも、目標やテーマを自分で発見する時代である。
規模の経済性が豊作貧乏を招いてしま単一巨大企業の時代は終わった。
作れば作るほど赤字を招き、重い足伽となっている。
汗水を流し、時間をかけた努力も、必ずしも成果とは一致しない。
これからのサラリーマン社会は、能力主義が一般的になるだけに、以前にもまして浮き沈みの激しい社会になっていく。
これからは、実力主義にふさわしい能力を発揮して伸びる人、いわゆる普通のサラリーマン、そして落ちこぼれの格印を押される余剰労働力の三種類に分類されていく。
同期といった枠を超え、地位の上下に縛られないサバイバルな「サラリーマン下剋上の時代」が本格的に到来する。
乾いた実力主義の時代とはいえ、日本的なメンタリティは一朝一夕になくなるものではない。
そして大部分のサラリーマンがあとの二つのカテゴリーに入るため、お互いの不安や嫉妬心はつのるばかりだ。
チマチマした視線がびっしりと張りめぐらされ、絡み合う社会になっていく。
そうしたサラリーマンは、会社にしがみつこうと、役にも立たない忠誠心ごっこのようなことをやり出す。
よけいに神経がくたびれる場面が増えていく。
チマチマしたサラリーマン処世の達人や、ただの能吏ほど話していて退屈な人種はない。
会社の看板や地位、ポストを取り上げられたらおよそ使い道のない人間ではつまらないではないか。
忠誠心などもう必要ないと会社が言ったら、もうそれでおしまいなのである。
私は、45歳のとき、たいていの中高年がそうであるように、年とった両親の世話と子供の教育事情で、やむなく名古屋へ2年間の単身赴任を経験した。
私の場合は、単なる転勤ではなく、左遷に近いものであった。
それも役員一歩手前で、階段から転げ落ちている。
この2年にわたる単身赴任は、いま思っても、自分の人生のなかでの大きな山の一つであった。
いつの間にかたくましくなり、自立心が生まれた。
仮に、私にハートのスタミナが多少ともあるとすれば、それはこの名古屋時代についたのだと確信している。
繰り返しになるが、これからはサラリーマンが個人として自立しなければならない時代である。
そのためにも、ハートにスタミナを早くつけて欲しい。
会社のなかで有効なハートのスタミナとは、心の防衛源であるが、一面で存在の
スタミナ、個人のレーゾン・デートル(存在理由)を保障するものでもある。
その意味から、社内でスタミナをつける以外に、サラリーマンには、やはりやってもらいたいことがある。
それは、外部の仲間社会や自分流のネットワーク、趣味、そういうもう一つのアイデンティティを持つことである。
定期的に自分と会社のレポートを書く
サラリーマンの能力で大事なのは、やはり業務遂行能力である。
仕事ができなければ話にならない。
ただ、サバイバルな時代には、必ずしもそれだけでは十分ではないということを知っておくべきである。
サバイバルな時代を生き抜くために必要な条件。
あえてその条件を一つだけ挙げるとすれば、それは一種の「しぶとさ」 であろう。
サバイバル競争が厳しくなればなるほど、サラリーマンを取り巻く環境はそれに比例して厳しくなっていく。
そこで、これからのサラリーマンは、タデとヨコの戦いを、したたかに、かつしぶとくやっていく必要がある。
社内では自分をアピールしてしこしこ出世レースもやるが、一方で社外の人脈も増やしていく。
このまま会社のなかで突き進んでいったほうがいいのか、あるいは勝負の土俵を外に求めてヨコで勝負したはうがいいのか、そこでもう一度チャレンジしたはうがいいのか、そのように考える時代である。
そのために私は、20歳後半から30歳、35歳、40歳、45歳と、5年単位ぐらいで自分の能力と知識、体験のチェックをやり、同時に会社のチェックもやることをお勧めしたい。
いわば、年ごとに自分と会社のレポートを書いてみる、5年ごとの自分の卒論と言っていいかもしれない。
チェックをやると言っても、なにも転職を前提にする必要はない。
ただいつでも転職できるだけの準備は整えておいたほうが安心だし、準備ができていれば不測の事態に出会っても余裕が持てる。
その態勢のチェックが5年おきに続くと考えればいい。
そのチェックによって、自分に足りない部分、もっと磨いたほうがいい部分が見えてくる。
また、会社が抱えている問題点や将来性、自分がやるべき仕事なども見えてくる。
つまり、したたかさへの武器が見えてくると同時に、したたかさの発揮どころが見えてもくる。
どうアピールするのが効果的かもわかる。
しぶとく生き残るという点で言えば、肩叩きなどから幸いに逃れられたとしても、これからのホワイトカラーには、忙しい人と暇な人の二極化が直線的に進む。
年功序列が崩れるのだから、能力のある人はそれなりの地位、ポストに昇進してますます忙しくなり、実力のない人はますます暇になる。
同じ地位、ポストにある人間の間にも、そうした二極化は進む。
たとえば同じ課長、部長であっても、仕事を開拓する能力、仕事を創造できる能力に優れた課長、部長は忙しくなるということである。
ということは、いままでのヨコ並びの賃金体系はどうしても崩れざるを得ない。
「人はパンのみにて生きるにあらず」とはいうものの、サラリーマンにとって賃金は大きなインセンティブである。
会社はそのことをよく知っているから、ヨコ並びの賃金体系を崩すことによって仕事の多寡に報おうとするだろう。
また地位、ポストがかぎられてくるから、賃金でしか報いる方策もなくなってくる。
日経新聞の記事によると、MIT(マサチューセッツ工科大学)経営大学院のレスター・サロー学長は、今後、労働者の賃金の二極化を次のように予測している。
「これまでの10年間でアメリカで起きたようなことが日本でも起きる。
グローバル・エコノミーのなかでは、いったん、技能の優劣を基準とした賃金の調整が始まると、その国の平均賃金水準とは無関係に、賃金は国際的に等しくなろうとする傾向がある。
世界の労働市場において、技能で中国の上から半分の労働者が日本の下から半分の労働者よりも優れたとしたら、経営者はどうしてわざわざ中国よりも技能の低い日本の労働者に、より高い賃金を支払おうとするだろうか」(1994年1月10月付)
能力主義の時代には、技能が賃金を決定する大きな要素になる。
ホワイトカラーにも国境がなくなり、優秀な人間はそれに見合った篤い待遇を受けるということである。
ボーダーレス時代の企業とはそうしたものである。
仕事が二極化すれば、賃金格差をつけられたり、賃金ダウンに見舞われる事態が当然起こる。
そうした事態を受容できるサラリーマンは、おおらかに暇を楽しめばいい。
仮に出世しなくても、やはり人並みの所得が欲しいというサラリーマンは、外でアルバイトをして埋めていけばいい。
本来の仕事をタテとすれば、ヨコの仕事を持つということになる。
会社は、社内の知識しかない人間、24時間会社人間の限界にはもう気づいている。
会社がはっきりと賃金格差をつけるようになれば、会社はアルバイトやセカンドジョブを認めざるを得なくなる。
いままで会社がアルバイトやセカンドジョブを認めなかったのは、平均的労働、平均賃金が原則としてあったからである。
それは、規模の利益を求める大工業時代の原理原則のようなものであった。
しかし、賃金格差が本格化する時代には、会社には、高い賃金を払うサラリーマンの時間を拘束する権利はあるが、忙しくない、そしてあまり高い賃金を払っていないサラリーマンは同等には扱えない。
そうしたサラリーマンの時間を拘束する権利はそれほど大きくないからだ。
本来の仕事以外で報酬を得るシステムは、イギリスではジェントルマン・スカラー、アメリカではウイークエンド。
クリエイティブ・ジョブ、ムーンライト・ジョブなど、さまざまな形態がある。
そうした形が実力主義の補完装置として登場するにはそれなりの理由があるし、日本でも常態化していくだろう。
賃金格差の代償に、余分の時間が獲得できる。
余った時間は、やはり個人の権利である。
忙しくない人は、このように前向きにとらえ、それをどう使えばいいかを考えればいい。-----
EXTENDED BODY:
アピールカも能力のうちである
好機は自分で作り出すものだ
能力主義時代は、「能ある鷹は爪を隠す」ではいけない。
自分の能力を磨くだけではなく、それを一方でうまくアピールすることも大事になる。
「能力のプレゼンテーション」が下手な人間は、なかなか好機に恵まれないだろう。
「見る人は見ている」とよく言うが、それを信じて頑張っていたら定年になってしまった、という笑えないような本当の話はいくらでもある。
イギリスのモラリストであるS・スマイルズは、『自助論』のなかで言っている。
「もし好機が到来しなかったら、自ら好機を作り出せ」
機会がないと嘆いていても成功はおぼつかない。
積極性がないと、自分の思いはなにも実現できない。
能力とは、最終的には自分の人生を創り出すもろもろの営為すべてを指す力である。
アピールカもその一つだ。
地位ポストでもそうだ。
従来のように、大過なく日々をまっとうさえしていれば、「あいつもそろそろ相応の年齢になったから……」とポストや昇進の機会が与えられる時代ではない。
若者を「指示待ち族」と言うのなら、いままでの旧人類は「地位ポスト待ち族」であり、「上司退職・上司昇進心待ち族」であった。
たいした仕事や実績がなくても、それでもトコロテン式に昇進していくことができた。
ほどほどの遠慮も必要だし、慎みもそれなりに評価できるが、つかむべきときはしっかりと自分でつかむ。
これがサラリーマンの気概というものだろう。
ましてやポストレス時代ともなれば、つかもうとする意欲を見せないかぎり、地位、ポストはめぐってこない。
上司の異動、退職などによってポストが天下り式に降ってくる時代は彼方にすぎ去った。
新しい事業に踏み出すときの社内募集などにも、真っ先に手を挙げたほうがいい。
分社などへの希望出向も、自分から進んでいったほうがいい。
それがピンチかチャンスか、やってみなければなかなかわからないものである。
ますます、業界、業際の垣根がなくなる。
リード産業、リード企業も不明確になっていく。
なにが幸いするかわからない時代である。
住み慣れた世界が居心地もいいし、安心感もあるだろうが、新しい世界に賭けてみるというのもまた悪いものではない。
指名されていくより士気は高いし、それなりに納得する部分もある。
なによりも、自分なりの問題意識が明確になる。
新規事業で指揮を執る場合も、分社で経営に携わる場合も、経営の技能面や人を使う面を同時に総合的に勉強できる。
そうした気象に富んだ人が、本当のエリートである。
「いかなる職業でも、自分が支配するかぎり愉快であり、服従するかぎり不愉快である。
電車の運転手はバスの運転手ほど幸福ではない」
フランスの思想家アランは、こう言っている。
完全にコントロールされ、決められたレールの上しか走れない仕事より、自分でコントロールしている仕事のほうがやり甲斐がある。
寄らば大樹の陰で、いつも安全策ばかり取ろうとする人は、本人に運が回ってきても、たいていは自分からその道を逃がしてしまうものである。
年功序列に可能なかぎりぶら下がっていたい過保護の擬似エリートは、未知の新たな挑戦には必ず尻込みする。
それが大きなジャンビング・ボードに化けることに気がつかない。
自らチャレンジに応じる人、あるいは自分を積極的にアピールできる人は、仕事に自信のある人だろう。
そうした人が身につけるべき能力は政治力であり、人間関係の怖さを知ることである。
サラリーマンは組織あってのサラリーマンである。
いくら能力があり、知恵があっても、一人でできることはたかが知れている。
大きな仕事になればなるほど組織が必要になり、他人の助けがなければ仕事は進捗しない。
注意すべきことは、サラリーマン社会は嫉妬社会であるということだ。
他人との相対的な比較で自分というものがある程度決まってくるから、そこにはどうしても嫉妬がつきまとう。
高い能力、高い評価に対しては、嫉妬も深くなる。
能力のある社員、知恵のある社員は、たしかに企業は大事にするだろう。
だからと言って、安閑としていてはいけない。
弾は前からしか飛んでこないと決め込んではいけない。
うしろから弾が飛んでくることもある。
思わぬことで足をすくわれることもある。
能力のあるサラリーマン、知恵のあるサラリーマンは、嫉妬社会の視線の圧力でつぶれてしまわずに、しぶとくしたたかに生き残って欲しいと思う。
そこには政治力も必要になってくるということだ。
ピンチに陥ったらどうするか
したたかなサラリーマンとは、絶体絶命のピンチを未然に防ぐ「逃げのテクニック」や「かわしの芸」を持っている。
しかし、いつもそればかりでは、なんのために生きているのか、なんのためにサラリーマンをやっているのかわからない。
ましてや仕事を通じての自己実現など及びもしない。
チャンスと見たら、やはりそこは突進していくべきだ。
ただやっかいなことに、チャンスというのは、決して安全な面ばかりを持つわけではない。
往々にして、ピンチとチャンスは重なり合っていることが多い。
そしてチャンスが大きければ大きいほど、待ち受けるピンチもまた大きくなる。
言ってみれば、コインの裏表のようなところがあり、そのコインにもまた大小があるということだ。
自分のサラリーマン生活を振り返ってみても、最も印象に残っているのはチャンスよりもピンチである。
ピンチのときこそ自分の勝負時であったということがわかる。
なにかを成し遂げて上昇気流に乗っているときの満足感はたしかに高揚した気分であるが、いつまでも続くものではない。
また、いつまでもその成功感に酔っていては、次の進歩もない。
順境しか知らない人間は意外にもろいものである。
昔から言うように、ピンチや逆境は人を練る最高の機会である。
ピンチをピンチとして受け止めれば、なにが自分にとって大事なことか、そして必要なことかが見えてくるし、度胸も座る。
頭の上げ下げ一つにしても変わってくるし、人への応対も真剣にならざるを得ない。
そうしたことを発見し、身につけることができれば、大きな財産にこそなれ、決してムダなものではない。
サラリーマンにはいろいろなピンチの場面がある。
仕事の成功など、確率的に計算できるものではない。
偶然とか成り行きとか、めぐり合わせなどの要素が非常に強いものだ。
思わぬ派閥抗争に巻き込まれることもある。
私のような左遷ということもあるだろうし、単に仕事がうまくいかないというときもある。
子会社出向とか、傍流に飛ばされるとか、不本意な配転とか、降格とか、単身赴任とか、それこそ山ほどのピンチがある。
そのときになにをやるか、これが勝負だ。
私は、左遷され、単身赴任したときは簡単にオタオタし、三ヶ月ほどは呆然自失の状態になっていた。
そのとき、この大ピンチをどうプラスに持っていくかということを私なりに懸命に考え続けた。
しばらく自分の評価は変わらない。
当分、最悪の評価が続くことは明らかだった。
ともかく仕事の分ということを心がけ、あとの暇な時間は読書に精を出した。
たしかにピンチは愉快なことではない。
サラリーマン生活をあまり知らない評論家や学者がきいた風なことを言っても、いざ自分がその立場に置かれたらどうなるか。
日頃説いているような高邁な論や処世のハウツーが実行できるだろうか。
おそらくオタオタし、陳腐な表現だが、目の前が真っ暗になってしまうのが普通だろう。
ピンチになったとき、頼りになりそうな上司に泣きついて禰縫策を打つ手もあるだろう。
派閥というものがあれば、そこに潜り込んでそれなりの保全策、保険を得るのもよいだろう。
それによって罪一等を減じられる幸運が舞い込むこともあるだろうが、ただそれだけしかないサラリーマンというのもつまらない。
自分というものがないと思えるからだ。
そういうときは、オタオタしてもいいと私は思う。
オタオタしてしまうのが人間というものだと思うからだ。
逆境のなかで大事なことは、自然体でいること、自分の感情に素直であることだ。
「大変なことになった」「あいつのせいでこんな目に遭った」「これからどうしよう」とかいろいろ考えながらも、その一方で「ここが自分の勝負どころ」という覚悟のようなものをどこかで持っていることである。
さめたもう一人の自分をもつことである。
その覚悟があれば、マイナスをプラスに転換することができる。
「伸びるために屈せよ」レーニンはこう言っている。
いまのピンチは、次の飛躍のための準備なのだと前向きに考えることだ。
自分の感情の流れをあまり無理してコントロールしようとしないほうがいい。
人間の感情など、そう簡単にコントロールできるものではない。
仮にうまくコントロールすることができたとしても、長期にわたってその状態を維持することは不可能に近い。
感情を理性でコントロールするというムリにムリを重ねるだけで、ストレはたまる一方、自分を見つめる視線が強い人ほどノイローゼとかに陥ってしまいかねない。
楽天性は、浮き沈みのはげしいサラリーマン処世をしぶとく生き抜くための、最も大事な資質である。
ピンチを迎えた原因には、運もあれば、派閥抗争もある。
能力的なものも考えられる。
単なる運であればさっさとあきらめるのが利口だし、派閥抗争に巻き込まれてピンチに陥ったとしても、お手並み拝見と行方を眺めているぐらいの余裕は持ちたい。
能力的なものであれば、まだ打つ手はある。
サラリーマンの能力とは、「これが能力です」と、ボンと取り出せるようなものではない。
実務的、機能的な能力と、性格的なもの、精神的なものの両方がある。
性格的なもの、精神的なものが実務能力の幅を広げ、広げられた実務能力が、再び性格的なもの、精神的なものにフィードバックされる。
二つの能力の総合、複雑なミックスがいわばサラリーマンの能力というものである。
サラリーマンの器量である。
こうした循環がどの程度できるかによって、本人の器量の大きさが規定される。
能力的なものでピンチになったときは、自分にはなにが欠けているか、どうすればそれが身につくかを冷静に考える好機となる。
欠けているものを補充し、一回り大きな器量持ちになればいいではないか。
ピンチになったときは、それを潔く引き受けるのも、これからのサラリーマンにとって必要なことである。
ある面では、ピンチは人間にとって大きなチャンスになる。
そこをどう克服するかが勝負になる。
なにも自分から好き好んでピンチを求める必要はない。
しかし、ピンチになったら、下手な悪あがきはやめて、そこはあっさり覚悟してかぶってしまったほうがいい。
下手な悪あがきは、それまでの人間関係をズタズタに引き裂いてしまう危険があるし、なによりも本人の精神に傷跡だけを残す。
人生80年時代ともなれば、これから浮き沈みは何回でもある。
たとえサラリーマン生活をまっとうしても戦いは終わらない。
もっと難しい局面が待っているかもしれない。
逃げて逃げて逃げまくることは不可能に近い。
サラリーマン時代にピンチに陥ったら、そのときのための勉強だと思えばいい。
サラリーマンの戦いにはいろいろな面がある。
なにも挑戦だけではない。
会社でなにもやらないことに耐えるのもまたひとつの戦いである。
巧妙な戦いが出来るサラリーマンになろう
弾に当たったことのないサラリーマンなど、私は信用しない。
仕事をしていないか、上辺だけの要領ですり抜けてきた人間に違いない。
弾にいっぱい当たって怪我してきた人のほうがしぶといし、本当の実力がある。
鉄砲の弾に当たったり、絶対に逃げないことによってしか身につかないことが、サラリーマンには無数にある。
これは一見すると損なように見えるが、将来、必ずお釣りがくるものである。
弾に当たれば、たしかに精神的に辛いし、怪我もするが、チャレンジしなければ人は伸びない。
たとえ、結果が失敗に終わっても、一歩踏み出してこそ能力は初めて大きく伸びるものである。
それにしても、サラリーマン社会には実に多種多様なサラリーマンがいるの 社内での出世というワンパターンの上昇志向に燃える者もいれば、仕事は人並みで十分、趣味や遊びの世界に深い満足感を覚えるサラリーマンもいる。
本来の仕事はそれほどではないが、社内人事の情報や個人の噂の収集には卓抜な才能を見せるサラリーマンもいる。
また、昇格の望みが絶たれたらさっさと転職してしまう人がいれば、降格や左遷などに遭遇しても、しぶとく生き抜くのがサラリーマンある、と考える経済戦士もいる。
コンプレックスだけがバネになっているような人間もいるし、偽悪家ぶって斜に構えることで存在を示そうとする者もいる。
あるいは、周囲の声などなんのその、小気味がいいほどゴマスリに徹し、上からの覚えめでたく引き上げられていくサラリーマンもいる。
多くの人は、ゴマスリに批判的だが、私などは、本人がきちんと自覚さえしていれば、それはそれでサラリーマンのしたたかな生き方の一つとして認めるべきではないかと思う。
明治日本最大の政治家・大久保利道は、藩主・島津久光に取り入るために囲碁を習った。
会社観にしても十人十色である。
仕事を通じての自己実現の場と考えるサラリーマンもいれば、労働の対価としての賃金を得る場にすぎないと見るサラリーマンもいる。
あるいは、サラリーマンになるのが普通の選択だから勤めただけという者もいる。
サラリーマンにとって、失敗は怖いものである。
だから、弾に当たることを恐れもするし、できることなら危ないことには近づきたくないという気持ちもわかる。
しかし、冒頭でも言ったように、弾に当たったことのないサラリーマンには、本当の実力がつかない。
失敗しても命までは取られない。
失敗したら、この借りはいつかお返しいたしますぐらいの気概が欲しい。
失敗したらそこから学べばいい。
イギリスの評論家であり歴史家であるT・カーライルも言っている。
「失敗の最たるものは、なにひとつそれを自覚しないことである」
厳しいサバイバル時代だからこそ、そして自己防衛、自己保身ばかり考えていないからこそ、こうした痛い目にも遭うのだと思うぐらいの図太い神経が欲しい。
減点主義で絶えず上の目をうかがい、チマチマ生き抜いてきたサラリーマンなどどこに魅力があるのか。
外の世界で、いったい誰が買うというのだろうか。
企業の人事システムのなかで、最悪のものは減点主義だと私は思う。
減点主義人事というのは、結局のところ、なにもやらなかった人間が押し出されて先頭を走るようになる。
減点主義とは、企業の最前線に出ることもなく、鉄砲の弾にも当たらず、いつも人のうしろに身を潜めた人間が最も効率よく出世できるシステムである。
自分から進んで仕事をすれば、やはり鉄砲の弾も飛んでくるし、怪我もする。
だからなにもしないのがいちばん得だということになる。
これでは会社に活力が生まれないし、伸びもしない。
なによりもサラリーマン自身が伸びない。
伸びようとする芽を自ら摘んでしまうのだから無理もない。
そういうシステムにうまく対応したサラリーマン処世の達人は、小さなところでは得をするかもしれないが、やはり大きなところでは損をする。
自分の勤めている会社というある限られた範囲、サラリーマン人生というある限られた時間では多少人よりいい目を見ることもあるが、会社を離れたところで、その人にはいったいなにが残っているのか。
最近でこそ、こうした減点主義人事の弊害に気づいた企業もかなり増えているが、それに代わり得る決定的な人事システムはまだ構築されていないと言える。
新しい人事評価システムの一つに、キリンビールが始めた「失敗加点」というものがある。
たとえ失敗であれ、挑戦として評価できるものであればプラス評価を与えるシステムである。
自分の立てた目標の実現度の自己評価と上司の評価、さらに挑戦内容に応じて点数がプラスされて総合評価となる。
大きな目標を掲げて努力する、失敗を恐れない挑戦的風土を創ろうという狙いである。
新しい試みとして、大いに注目しておきたい制度である。
しかし、なんでも突撃せよ、一匹オオカミになれと言っているのではない。
鉄砲の弾に真っ先に当たるべLと言っているのではない。
鉄砲の弾に真っ先に当たっていくことばかり考えているサラリーマンは、どこか抜けている。
これは犬死である。
やはり組織のなかに生きるサラリーマンなのだから、そこは巧妙自在な戦いをして欲しいと思う。
私がサラリーマンの処世術を一方的に軽蔑しないのは、そこにある。
ピンチをどう逃げるか、危ない仕事に近寄らないためにはどうすればいいか、そういうテクニックを覚えることも大事である。
たとえば、この場面は逃げたほうがいい、あるいはかわさないと間違いなく討死することが明らかな場合、あえて自分で墓碑銘を刻むことはない。
そんな場合まで、銃弾の雨のなかを突進していくことは愚の骨頂だ。
逃げも実力のうちである。
歴戦の勇士やすぐれた武将は、かならず徹退戦が上手である。
それでも、減点主義人間より一匹オオカミのほうがまだましだと言える。
いつも自己防衛のことばかりを考え、一歩も踏み出そうとしない人間より人間的だからだ。
そして、なによりも後ろ向きでないところが買える。
ベテラン度に逃げ込むな
過去の知識や体験は陳腐化した
能力主義、実力主義と言っても、判定するリトマス試験紙があるわけではない。
また、ロールプレーイングのような擬似ビジネス、ビジネスのシミュレーションで程度がはかれるものでもない。
実戦ビジネスと練習とは、比較などできるものではない。
実戦は状況が一定均一のものではないし、解の有無もわからない。
応用問題をつねに解くようなものだからである。
マニュアルがあって、たとえばこう進めれば契約が取れるというようなシミュレーションとは本質的に違う。
実施に当たっても、絶対評価だけでいいのか、相対評価をある程度加味すべきか、目標管理制度にするかなど、ガラス張りで公平な評価制度にするにはどうするかという難問もある。
報酬と昇進の関係をどう位置づけるか、敗者復活戦をどう認めるかという問題もある。
ただ、時代の趨勢として、能力主義、実力主義への流れはもう止まらないところまできている。
私など、実力主義を本当に適用すべきは経営者ではないかと思っている。
管理職や一般社員にだけ実力主義を適用すれば、会社は安泰である、成長できる、あとは従来通りでいいということはあり得ない。
「日本の大企業のトップは経営者というより管財人である」という声もある。
ポストも賃金も増やせた高度成長期に就任したトップは、得られた富を平等に分配し、不平不満が出ないようにさえすればよかった。
そして、その方法論からなかなか抜け出せないでいる経営者がいまだに多い。
企業というものは経営者の舵取り一つでどうにでもなる。
経営者格差が企業格差をもたらし、企業の盛衰を決定する。
とくにソフト化時代というのは、経営者の能力差が歴然と出る怖い時代である。
どの業種も、どの企業も、生産怪を上げればヨコ並びで恩恵が受けられ、成長していける時代ではもはやない。
厳しい環境下にあるいま、経営トップに、この激しい潮流を引き受ける覚悟ができているかどうか、実力があるかどうかが、大きな問題となる。
一部のユニークな会社では、社長立候補制や上級幹部選挙制、さらには集団合議による年俸決定などを実行しているところもあるが、まだまだ市民権を得ているとは言えない。
企業とはしょせん時代適応業にすぎない。
同じパラダイム、同じ競争のやり方、同じ組織と人が10年も20年も通用するものではない。
ナポレオンでさえ、「10年ごとにリーダーと軍隊の編成を変えないとその軍隊は優秀ではない」と言っている。
社員の高齢化や低成長でやむなく企業が年功序列を崩すのではなく、むしろ年功序列を積極的に崩し、組織の若返りをはからないと競争に勝てない時代である。
変化こそ唯一の生き残り策と言ってもいい。
まして、現在のように変化の激しい時代には、昔風の組織と人の評価のやり方でやっていける企業などありはしない。
ベテラン社員であればあるほど、これまでの知識や経験が陳腐化している。
企業にとって、かえってマイナスになっている。
そして、会社のためという大義名分のもとに、サラリーマンにご託宣が下される。
「お前さん、もういらんよ」と。
古い組織にしがみついてきたサラリーマンは、肩叩きされて初めてカラッポの自分に気がつく。
サラリーマンOBとして、会社人間の辛いところはよくわかるつもりだ。
会社から冷たくされようが、しがみついたほうが本人のためにはいいと言いたくもあるが、しかしいつまでもそれだけではあまりに不用心すぎる。
サラリーマン冬の時代ということは、ある意味では、従来のサラリーマンの経験とか知識があまり通用しなくなった時代であると言うこともできる。
よく言われるように、戦争の技術や思想が変わったとき、古い職業軍人ほど無能ぶりを発揮する。
古い将軍たちは、前の戦争のイメージで新しい戦争にいどむ。
過去の成功体験が、災いしてしまう。
もう通用しなくなった自らの体験や物差しがまだ力を発揮すると錯覚し、新しい戦争を遂行しようとするからである。
それと同じ愚を繰り返してはならない。
現在の企業社会の最大の欠陥は、社会が大変化したにもかかわらず、組織の上のほうにかつての高度成長期のエースクラスが多すぎることである。
いわば、古い職業軍人社会のようなものである。
中高年が活躍した大工業時代には、企業の目標やテーマがはじめから決まっていた。
登るべき山がはっきりと視界にとらえられていた。
そして、彼らを中核に、全体の和と年功序列を重視してきたムラ社会的な日本の企業では、なにかにつけて過去の体験や物差しを頼りにしたケースが多かった。
というのも、そこでは従来技術のプロセス改良が要求された技術であり、過去の体験を手直しすることが最善の方法だったからだ。
製造現場だけでなく、オフィスでも、営業でも、古い物差しが大手を振ってまかり通っていたから、生産性と品質管理、一社一心の団結と全員の努力や士気の高さというような手段的価値が、企業の経営戦略に大化けできた。
しかし、経済環境が変わり、技術も価値観も大変化した時代には、これまでの競争原理が通用しなくなった。
キャッチアップ経済の時代は、アメリカといういいお手本があったが、成熟した日本経済にはもうお手本はない。
企業も、自らの手で、目標やテーマを発見していかねばならない。
新しい目標やテーマは、過去の体験や物差しでははかれない。
いきおい、トップダウンせざるを得ない領域がどんどん増えているし、ときには既得権意識の強いベテラン社員のいやがることもやらざるを得ない。
本音のところでは、トップも含めた組織の上のほうは、そうしたことはやりたくないのかもしれない。
彼らは、ほとんどが大工業時代のなかを潜り抜けてきた大ベテランである。
年功序列とそれいけどんどんでやってきた世代であり、その恩恵を最大限に受けた世代でもある。
社員に対して振るわれる大ナタが諸刃の剣であることをよく承知しているからだ。
学習廃棄で対応しよう
企業は人材で勝負する以外にない。
経済の成熟化と産業構造の大変化、技術の変化、高齢化社会と、過去の常識では解決できないような変化の大波が目白押しにやってきている。
こうした厳しい時代を乗り切るには、実力主義しかないということになれば、サラリーマンとしては適応しないとやっていけない。
仕事の内容、必要とされる能力の中身が変質してくるのであるから、これはサラリーマンにとっては重大事である。
年功序列と終身雇用が崩れ、だんだん乾いた実力主義の時代になってきたことを覚悟することが大事だ。
乾いた実力主義の時代には、まず、過去から現在まで持っていた常識ですべてをおしはかろうという考え方は捨てなければならない。
ベテラン度は万能ではないと知ることだ。
私など、経営のトップからまず自らのベテラン度を否定してみて、それでなにも残らなかったら引退すべきだと思っている。
それぐらいの気概が経営者にないと、いまの厳しい状況は乗り越えられない。
だが、そうした経営者はなかなかいないものだ。
過去から現在に持っていた常識で物事を判断しようとすると、未知に遭遇した場合、サラリーマンは辛い気持ちにもなる。
わけがわからなくもなる。
その常識とは、平たく言えば、ベテランは新人より偉い、なんでもよく知っているというようなことである。
先輩は後輩より絶対に偉いというのは、技術にイノベーションがなく、価値観が多様化していない時代を前提にしている。
技術がどんどん変わり、価値観がどんどん多様化していく時代には、ベテランが必ず新人より偉い、先輩は後輩よりなんでもよく知っているわけではない。
またコンピュータの発達で、ベテランにも新人にも、同じニュース、同じ情報が入ってくる。
つまり、賢さの規準に大転換が起きているのである。
「人間が賢くなるのは、経験によるのではなく、経験に対処する能力に応じてである」
イギリスの劇作家バーナード・ショーは、こう言っている。
中高年が持つべき賢さとは、アンラーニング(学習廃棄)できる能力である。
過去の知識や体験、獲得してきた物差しを、ある程度無用のものとして捨て去る知的度胸である。
世の中が大きく変わりつつあるのだから、もう通用しなくなった古い知識や体験を捨てていく努力をすることによって、初めて新しいことが学んでいけると考えるべきだろう。
ベテランのサラリーマンにとって、自分のベテラン度を否定してしまうのは苦痛だ。
そんなことをしたら、もう自分というものがなにもなくなってしまうように感じられるかもしれない。
しかしそのベテラン度をせめて%ぐらい疑ってほしい。
それをやらないと、企業の未来も、サラリーマンの未来もない。
単に会社だけでなく、自分にとっても、結局のところ不利になっていく。
これからのサラリーマンには、ときには自分のベテラン度を否定するだけの勇気がいる。
なんとか自分のベテラン度を否定されたくない、守っていきたい、自分のいままでの知識や体験を傷つけたくない、せっかくの既得権を逃したくないという意識が強すぎると、新しい戦争に適応できずに大きな被害を招いた古い職業軍人の二の舞になる。
すぐれた教師は生徒と知恵争いなどしないものだ。
自分が教えながら、一方で下から教えられていく努力もしている。
先輩は後輩よりも優れていると思い込み、下の意見を汲み取れない心の狭い人間は、会社をダメにするばかりではない。
自分の手で自らの存在価値を低めていく。
たとえば、部下からいい提案があってもそれを退けたり、部下の意見をまったく聞こうとしない上司は、自分の能力に自信があるからではない。
自分の能力に自信がないから聞けないのである。
狭い了見から、部下が自分より優秀であることを恐れるからである。
本当に自信のある上司は、違う。
普段から教えることをいっぱい持っている人間は、下から教えられることを怖がらない。
そんな小さなところで部下に勝たなくとも、もっと広いところで勝てばいいことを知っている。
下から教えられることを、あるいは自分のベテラン度を否定されるのを怖がらない。
「人に従うことを知らない者は、よき指導者になり得ない」(アリストテレス)し、「人は教えるうちに学ぶ」(セネカ)ものなのである。
ベテラン度を否定し、下から上がってくる意見、提案を喜んで開ける心の度量の大きさのようなものを持つことが非常に大事になってくる。
勉強とは、単なる知識の蓄積だけではない。
今日のような変化の時代には、陳腐化した知識や体験を自ら捨てていくアンラーニングも大事である。
古い知識や観念を一方で捨てていかないと、新しいものは学べない。
しかし、実力選別というのは、厳しいことかもしれないが、ある面では楽しいこともある。
人柄がよくて、気配りも十分だが、ちょっと能力に欠ける管理職を上司に持った部下ほどつまらないことにこき使われ、才能をすり減らしてきた。
正当な評価を受けることもなかった。
実力主義の時代ともなると、過去の尺度でははかりきれなかった能力を持つ人間、本当は実力がありながら不当な評価しか受けなかった人間も、堂々と表舞台に登場できる。
人間は、工場で生産される商品とは決定的に違う。
欠陥商品は商品として通用しないが、欠陥社員、不良社員などと格印を押されていた人間のその欠陥部分が必要になってきた。
ある大企業で、欠陥社員や不良社員ばかり集めて、ある大事業を成功させたケースがある。
従来の価値観ではマイナスとされた部分がプラスになる時代がきた。
アクの強い社員には、いよいよ自分たちの時代がやってきた。
最近、欠陥社員、不良社員と言われた人間が、思わぬ新規事業を成功させたり、またアメリカでは「組織のギャング」と呼ばれる社員がリエンジニアリングの実質的な担い手になっている。
際立つ個性、異質異能といった一見いかがわしい才能が、会社にとって財産となる時代なのである。
この面では残念ながら、アメリカのほうが進んでいる。
アップルの創業者スティーブ・ジョブスはヒッピーの元祖のようなものであり、マイクロソフト社を創ったビル・ゲーツはハッカーだった。
この二人の異才がIBMの牙城を切り崩した。
仮に、社内で思い通りにいかなくても、実力さえ磨いておけば、転職が転落を意味していた時代とは違う時代である。
敗者復活戦は社内だけでやる必要はない。
外に転職というパイがある。
戦う土俵が小さいものであれば、勝負はどうしてもチマチマしたものになる。
相手の動きを絶えずうかがうような陰気くさいものになってしまう。
戦う土俵が大きくなれば、勝負のスケールも大きくなる。
いざとなれば、外に出て食べていける実力があれば、社内で上と下の板挟みになって苦しむこともない。
時代のソフト化、サービス化が、役立つ能力、非凡な才能を持っている人には大きな活躍のフィールドを用意してくれている。
実力がなければ、いっときも早くその実力を身につけるよう努力すればいい。
サラリーマンの出世には、運不運もあれば、怪格の問題もある。
したがって、実力主義時代とは、チャレンジする土俵が大きくなったと前向きに楽天的にとらえたほうがいい。
日本的温情主義という変な精神主義が、会社を、そしてサラリーマンを多様な選択肢のないいびつな辛い立場に追い込んでしまっていた。
これからは、会社もドライならサラリーマンもドライ、お互いに恨みっこなし、と割り切ったほうがいい。
そうした契約の精神が、長い目で見た場合、お互いにプラスになる。
会社は問題をこれ以上先送りしないで思い切った戦略転換ができるし、サラリーマンも人生80年時代のライフスタイルの構築に踏み切れる。
必要なハウツーは自分の体験からしか学べない
日本の書籍出版量は世界でも有数だと言われているが、実務的なハウツーものもかなりの量にのぼる。
サラリーマンに必要な情報とハウツーものとは異質のものであると思うが、ハウツーものが書店のなかでこれだけの面積を占めている国は、聞くところによると、世界でも日本だけらしい。
日本では、それだけハウツー本を頼りにするサラリーマンが多い証拠かもしれない。
サラリーマンが情報産業社会を生き抜く知恵は、情報の分析力と解釈力である。
そこのところに誤解はないだろうか。
情報力とは、単に情報を集める能力ではなく、解釈能力をつけ、自分の意見をそこからどう築いていくかという能力である。
この点を誤ると、情報ノイローゼに陥ってしまうし、ただの物知りで終わってしまう。
情報が価値を持つ情報産業化社会では、情報力の個人差が待遇における個人差に直接つながる。
サラリーマンもその辺はよくわかっている。
ただし、依然として情報収集の段階にとどまっているサラリーマンがまだ多数だし、ハウツーものを読めば必要な知的武装はできると思い込む人もいる。
「他人の知識によって物知りにはなれるが、知恵者になるには自分自身の知恵によってである」『随想録』のなかのモンテーニュの言葉を、じっくり噛みしめて欲しい。
借り物の知識でも物知り顔はできるが、いざというときには役に立たない。
本当の知恵というものは、自分の血となり肉となったものでしかない。
ハウツーものがそれだけ多量に供給される理由は、それだけの需要があるということだろうが、なにかとハウツーものを頼りにしているサラリーマンには心もとないものがある。
ハウツーものばかりを読んでいる人間の頭には、まず「ホワイ」という疑問がない。
疑問がなければ、進歩もまたない。
型にはまった知識や手法が整理されてしまい、手続きにうるさいお役所の役人のように、ガチガチの会社人間になりやすい。
どうしても視野が狭くなる。
困ったときまでハウツーものを読むなとは決して言わないが、頼りにしすぎると危険である。
ハウツーものには、なによりも限界がある。
結論を先に言えば、たとえば「運」という要素をどうするかという点と、「現実とのギャップ」である。
まずは、運や相性の問題である。
人生のなかで運の占める割合は大きい。
小林秀雄は、「人はみなそれぞれ自分の性格に合った事件にしか出会わない」と言っている。
とくにサラリーマンというのは、運が大きく左右する。
サラリーマン社会とは、運の大きな渦のようなものである。
入社先を決めるときから、その運は回転し始める。
発展性を信じて入社したものの、その後、入社した企業が社会のニーズに合致せずに伸び悩んだり、斜陽産業の仲間入りしてしまうこともある。
入社後も、日本の企業のようなムラ社会では、たとえば上司適、業務避などといったいろいろな運が待ち構えている。
自分では選択できないたまたまのそうしためぐり合わせが、当人の将来を大きく変えてしまうことがある。
「世に伯楽ありて、しかる後に千里の馬あり」と言うように、いくら才能がある人でも、上司にその才能を見抜く力がなければ陽の目を見ない。
また、人間というものは、自分の能力以上の能力はなかなか発見できないし、認められないものでもある。
「自分はわからないから」と任せてくれる上司にめぐり合ったサラリーマンは幸運だ。
自分より能力があるとわかると、嫉妬心や猫疑心も生まれやすいし、対外的に「ダメなやつ」というレッテルを貼ってしまうことも少なくない。
逆に、慧眼に出会い、自覚していなかった才能が開化することもある。
業務面でもそうだ。
たとえば、前任者の時代は脚光を浴びなかったある事業が、交替した途端に時代の要請で強力なバックアップを得られたり、新技術開発、新製品のヒットなどで花形事業になってしまう例はよくある。
運も実力のうちとはよく言うが、そうした予測不能の事態がサラリーマンの世界ではつきものだ。
それがサラリーマンの面白いところでもあるのだが、反面、辛いところでもある。
だから、実務的なハウツーものと同じぐらい、「運を呼び込む」とか、「運をつかむ」とか、「運の強い人間になる」といったハウツーものが幅を利かせもするのだろう。
しかし、そんなもので強運な人間になれないことは言うまでもない。
ハウツーものの第二の限界は、現実とのギャップである。
現実は公式の集合ではなく、未知の応用問題に満ちている。
言ってみれば、つねに初体験の連続である。
交渉でも人とまったく同じ状況、まったく同じ人間関係はあり得ない。
また当事者同士がまったく同じ能力の持ち主ということもない。
本当に役立つハウツーとは、あくまで自分で作っていくしかないものなのである。
運と現実とのギャップ。
そこにハウツーものの限界がある。
だから、実務面のハウツーものの知識だけではどうしようもない部分が多い。
必要なハウツーは、やはり自分の体験からしか学べない。
体験から学ぶということは、単なる知識として頭で学ぶだけでなく、身体で学ぶことを意味する。
自分だけのノウハウとして学ぶことであり、行動を起こす際の判断基準として体得するということである。
ただ、二十代、三十代というのは経験もまだ不足しており、自分流のハウツーを作れる状態にはない。
スキルがまだ不十分であり、実戦の一兵卒にすぎないから、他人のハウツーのいいところを取り入れ、実務的な能力をいかに伸ばすかの年代である。
だからスキル中心でやればいい。
二十代、三十代は実務書をしっかり読むことである。
そしてそこからスキルを身につける。
たとえば、管理技術やマーケティング、経理の専門知識やコンピュータシステムをマスターするとか、外国語を覚えるとか、スキルの面を徹底的にマスターしたはうがいい。
四十代ともなれば、もうそれは許されない。
その齢になっても、まだハウツーものや、ビジネス書のベストセラーを一生懸命読んでいるようでは、とてもいい齢をしたサラリーマンの知的武装にはならない。
その齢になれば、ハウツーではなく、自分とは異なった意見を持つ外部の人間や、古典や歴史などの持つ知恵から学んでいたい。
「四十以後はすなわち五大陸につながることあるを知る」(佐久間象山)とまではいかなくても、四十代ともなれば、自分で自分なりのハウツーを作る作業は終っていなければならない。
- どう勉強すればいいのか、
- 人とうまくつき合うにはどうすればいいのか、
- ピンチのときはどう対処すればいいのか、
- 数字はどう読めばいいのか、
- スムースに仕事を運ぶためにはどこを押せばいいのか、
- さらにどうしたら出世できるのか、
そうしたものをたくさん頭の引き出しにしまっていなければならない。
個人として生きるうえでの情報を集める サラリーマンの器量とは、実務的なものと実務的でないもの、効率を目ざすものとムダなもの、そういった背反的な知識と体験が織り上げる。
その幅が広いほど、器量も大きくなる。
そして、非実務的なものが、個人としての魅力を形成する場合が多い。
四十代とは、実務的知識やハウツーを詰め込むのではなく、そうした非実務的な知識が要求される。
もう応用問題を自分で解く時期である。
単に応用問題を解くだけではなく、できれば、応用問題を作っていなくてはならない時期である。
そのためには、異質の情報や体験に出会い、思考の弾力性を維持していかねばならない。
会社人間、それもエリートほど、どうも実務的に傾きすぎるきらいが強い。
時間がないと新聞しか読まない人が多いし、その新聞の読み方一つとっても、実務的な色が濃い。
いわゆる仕事一筋の新聞の読み方である。
たとえば新聞を見て、これはビジネスチャンスになるとか、他社はここまでやっているのかとか、この経営手法は役立ちそうだとか、やり方を変えないとわが社も危ないのではないかとか、自分の仕事や会社に引きつけていろいろ思いをめぐらせる人が圧倒的に多い。
新聞とは、言ってみれば、単なるニュースの集大成である。
ニュースの底流にある社会の変化や時代の風向き、流行や価値の多様化に多少鈍感でも売れるものである。
いまなにが流行って、なにがブームになっているのか。
その点では、新聞はあまり参考にはならない。
私は、新聞を読むなと言っているのではない。
新聞も必要だし、ビジネスマンである以上、実務的な読み方も必要だろう。
その一方で、それは個人として生きていくうえでの情報とは違うものだ、と思うところが欲しいと言っているのである。
実務家としての情報と、自分が誇りを持つための情報とは基本的に違う。
旧人類の知識は、あまりにも新聞に偏りすぎる。
四十代、五十代の人は、もっと週刊誌や雑誌を活用すべきだろう。
雑誌は時代の変化、読者のニーズの変化に敏感である。
週刊誌や雑誌は、時代のトレンドを最も鋭く反映している。
まず、新聞を丹念に読む。
そして、週刊誌・雑誌を併読してみる。
漫画雑誌もばかにしてはいけない。
とくに二番煎じではなく、他誌ではやっていないような連載には注意したい。
線香花火的な単なるアイデアで終わってしまうかもしれないが、電車のなかで若者が熱心に読んでいたりしたら要注意だ。
そうしたタウンウォッチングから、意外なヒントが得られたりする。
週刊誌しか読まない奴はばかだが、週刊誌を読まないサラリーマンも間が抜けている。
週刊誌は現代の動きや流行の最先端をつかもうとする。
いま消費者がなにに興味を持っているのか、これから先の動きを推理してみるのも面白い。
ただし、週刊誌も、知的なヒントや安らぎを与えてくれはしても、自分が個人として生きるうえでの情報はなかなか与えてくれない。
そこで私は、四十代以上の人には、古典や定評のある本を読みなさいと勧めている。
実務家としての情報の大小と価値観、そして自分が個人として生きるうえでの情報の大小と価値観。
現代とは、その両方がサラリーマンに必要になってきた時代だと思うからである。
とくに個人的なものがこれからのサラリーマンは求められている。
そういう面では、古典や歴史、あるいは定評のある本を読むのがよい。
古典というと、すぐ中国や日本の偉人・賢人の類いが頭に浮かぶが、別にそうしたものでなくてもいい。
古典というのは、定評の定まった本、歴史の遺産であると言っていい。
当然のことながら、読書に王道などない。
好みの本、読書法、そこから学んでいくものなど、個人個人によって千差万別である。
それらを全部含めて、要は、自分なりの読書法を身につけることである。
読書でなによりも大事なことは、それが楽しみ、趣味であるというところだろう。
楽しみで読んでいれば、自己啓発のハウツー本より、はるかに自己啓発になる。
自分のサラリーマン時代の反省も込めて言うのだが、四十代、五十代の旧世代の会社人間は、自己啓発や充電に関して、かなり中途半端な存在だ。
企業の集団的社員教育で鍛えられ洗脳されてきたために、充電とか自己啓発とか言われるとどうしていいかまずアタフタしてしまう。
休みの日には、ボケッとしてなにも考えずに、好きな本でも読んでいればいい。
読書にあきれば、ゴロ寝でもするに限る。
ゴロ寝は真面目の活性化である。
疲れた中高年は、おおいにゴロ寝を楽しめばよい。
ゴロ寝をサラリーマンの最低の趣味にしてしまったのは、効率と合理化を至上とした工業化社会の価値観だ。
その悪しき名残りにしかすぎない。
ぼんやりとした時間をもち、ユニークなものの見方・考え方を育てることこそ、高度情報化社会における効率というものである。
非効率の効率が情報化社会なのである。
ただし、読書のためにもゴロ寝のためにも、せめて自分だけの書斎は持ちたい。
住宅事情から言って、一室を書斎に当てるというのはなかなか難しいかもしれない。
であれば、屋根裏でも、物置小屋の一隅でもいい。
これなら、女房に文句を言われることもないし、掃除のたびに移動する必要もなくなる。
自分の城をもつ意義は、別にもある。
仕事も遊びも集団が大好きな会社人間は、孤独にきわめて弱い。
人生八十年時代である。
定年後でさえ、あと一山も二山もある。
孤独におびえていてはなにもできない。
自分の城を持ち、たてこもる習慣が身につけば、そのうち一人でいることにも慣れ、孤独におびえることもなくなる。
孤独とつき合う術のようなものが、少しずつわかってくる。
さらに孤独からなにか楽しみのようなものを発見することもあるだろう。
そうなれば、古女房から「濡れ落葉」などと軽蔑されなくともすむ。
四十代ともなると、感性の面でも創造力の面でも、サラリーマンはいろいろすり切れ、くたびれているところがある。
そういうものをリフレッシュさせるために、読書が嫌いな人は、郷土の史跡を歩いたり、陶器を見たり、絵を見たり、好きなことをやればいい。
そうすることによって、自分が生きる道というものも少しは見えてくるし、新しい発想もできる。
感性というものも広がっていく。
中高年ホワイトカラーの仕事の意識改革が必要
組織意識に決別する
ひと頃、「社畜」「社奴」とかいう言葉がマスコミを賑わした。
私は、この表現が大嫌いである。
多くは、「会社に唯々諾々と使われる人間になるな」という文脈で使われたが、サラリーマンは屈折した存在だから、
「私は社畜でございます。言われたことはなんでも致します」
と、ことさら自分を卑下してみせる人間も現れたりした。
また、こうした人間は中間管理職に多かったのも事実である。
しかし、これはほとんどがプリテンド(装い)である。
危険なところにはいかせないで下さいとか、あまり無理な仕事は押しっけないで下さいとかいった切ない保身願望の露出にすぎない例が多い。
だから、「この仕事は多分玉砕するだろうが、きみ、一つ死ぬつもりでやってくれ」などと言われたりすると、尻込みしてオタオタしてしまう。
人事異動で真剣に悩んでしまうのも、こうしたタイプである。
いささか楽観的に言ってしまえば、日本のサラリーマンには、自分が「社畜」であると本音で思っている人間などいないのではないだろうか。
会社人間、社閉症人間はいても、「社畜」はいない。
これが日本のサラリーマンである。
これと逆に、普段から「会社なんて骨を埋めるところではない」と広言し、「非拘束人間」を周囲に印象づけようとするタイプもある。
ただ、昔からよく言われるように、「辞める辞めると言って本当に会社を辞めた人間などいない」ものである。
こうした人間は、本音のところでは、「社畜」と自分を卑下する人間以上に会社を強く意識している。
古い組織観にとらわれている部分がある。
サラリーマンは会社あってのサラリーマンである。
それは確かなことだが、「社畜」と自分を卑下する必要もなければ、「非拘束人間」をあえて宣言する必要もない。
本当に自分に自信がある人間、仕事に自信があるサラリーマンはそうしたことを口にしないものだ。
大事なのは、現実に会社でなにをしているか、どういう仕事をしているかである。
また、「社宝」と言われるのもばかばかしいかぎりである。
よほどの例外でもないかぎり、プライベートな部分のほとんどを捧げ、自分を犠牲にしたうえでしかそうした表現にはたどり着かない。
「社宝」と持ち上げられたところで、自分の履歴に書くわけにもいかない。
もっとも、「社宝」などという言葉を会社が使うのは、定年退職を間近かに控えた上級管理職の永年勤続表彰の場合などが多い。
お別れの言葉であるから、経営者はどんなはめ言葉、美辞麗句を使っても、決して損をすることはない。
ここを先途とはめちぎって、仮に「オレもああ言われるような管理職になりたい」と思う単純な社員が一人でもいれば、まさに丸儲けである。
ともあれ、いま管理者像は大転換している。
かつて理想とされた管理職は、どっしりと構えていて部下に仕事をやらせていく、全員が仰ぎ見る、そういうマネジャー・タイプであった。
仕事にしても、部門間の調整力が高く買われた。
赤提灯などで「ま、いっぱい」とか言いながら、ヨコ並び意識をうまく利用して根回しをやり、稟議書を上げるテクニックの優劣が競われた。
そうしたことがきちんとできるのが有能な管理職とされ、尊敬もされた。
そこでは企業戦略、あるいは市場戦略をどうするかより、組織が優先されていた。
ピラミッド型組織維持のために和と談合が大事であり、社内に波風を立てない管理職が大事であり、全員を同じ目標に向ける才覚が管理職の才能とされた。
個人より組織に力点が置かれていた。
いま求められているのは、そうした組織意識、会社への求心力との決別である。
さらに言えば、自分の会社、自分の組織に波風を立てることのできる能力を持っているかどうかである。
組織意識からの決別は、自分にとって役立つだけでなく、会社にとってもこれからは大事になる。
「会社に忠実な人間」ではなく、「自分の仕事に忠実な人間」が会社を伸ばしていくからだ。
管理職ともなれば、なおさらである。
企業とは、本来そうしたものでなければならない。
仕事は仕事としてきちんとやる。
大切なのは部門間の調整や根回しではない。
ましてや、プリテンドや見返りを期待する心ではない。
どういう仕事をしているかという仕事の中身なのである。
企業で生き残る人間は、ゼネラル・スペシャリスト
サラリーマンは、会社の看板と組織で仕事をするが、そういう切ないサラリーマン意識を、どこかで超えようとするものがなければならない。
自分の能力に自負と誇りを持ちたい。
管理職ともなればなおさらだ。
管理職というのは、部下を使って仕事をしている。
「しんどい、辛い、疲れる」とか言いながら、その実、部下の仕事で自分の能力をごまかしているところがある。
部下の仕事の陰に隠れているところがある。
人間の能力は無限ではないとか、もう十分戦ってきたのだからいい加減でいいだろうと思いたい気持ちは否定しない。
私などでも、たしかに課長までは忙しくてきつかったが、部長から上になると、仕事は非常に楽だった。
自分の能力をクライアント獲得にかけなければならない事態は少なかった。
極端に言えば、「皆さんお願いしますよ」とか言っていれば、それだけで仕事がすんだところもある。
昔の貧しい時代は、地位が偉くなれば、それだけで、下は簡単に権力も権威も認めてくれた。
上司には権限もあるし、尊敬もした。
自分もやがて年功序列で偉くなっていくのだから、偉い人を尊敬しないと、そのツケがやがて自分に回ってくると思っていた。
体育会系の感覚である。
しかし、いまの新人類は、醒めた気持ちと非常に老練なテクニックを巧まずして持っている。
彼らは本音を見せないことがなかなか上手だから、本心では尊敬などしていなくても、従順なふりをする。
課長とか部長の権力は認めてうまく使おうとするが、だからと言って尊敬はしない。
人柄のよさとか気配り、面倒見のよさだけでは上司を評価しない。
もう社内の知識や体験、人脈だけで尊敬されるというわけにはいかない時代なのである。
新人類は、自分が納得できる人、自分の能力を伸ばしてくれる人、価値のある仕事をさせてくれる人であると信じたとき、上司として初めて認知し、尊敬する。
別に尊敬されるためにというわけではないが、業務遂行のためには、現代の管理職はスペシャリスト的な要素が大変重要である。
これからのエリート管理職とは、部下から尊敬されるようなプレーができる分野を持つゼネラル・スペシャリストになる。
従来のゼネラリスト志向の時代は終わった。
伊藤忠商事で始まった個人別人事評価制度は、典型的な「ゼネラリスト崩し」である。
同社の評価制度は、ゼネラリスト化した社員の処遇のために細分化した組織と仕事を壊していこうとするものである。
取引する業種に対応したスペシャリスト集団を目ざし、給与も従来の一律方式を廃止し、相手業種に合わせたものになる。
従来、スペシャリストと言うと、ゼネラリストのコースから外れた吹き溜まりのような観があったが、これからはスペシャリストの集団化が企業の大きな戦略になる。
他の人間では代替できないような能力を持った者が勝ちなのである。
そしてその能力には、当然、報酬面での高待遇が約束される。
自分でプレーできる分野、スペシャリストとしての能力を発揮できる分野がないと、下は尊敬してくれない。
自分の仕事も持ち、なおかつ仲間でも仕事ができる人間でなければならない。
外からお呼びがかかるぐらいの腕前であれば、なおさらよい。
第一線のミドル層は、現場に向かって、風向きの変化を直接肌に感じる立場にある。
その意味で、理想的なゼネラル・スペシャリストに最も近い存在であると言える。
後は、スペシャリスト的な部分が弱いのか、ゼネラル的な要素が弱いのかを見極め、弱点を強化していけばいい。
とくに課長になったときに、世間から相場がつくようなサラリーマンになって欲しい。
私は「課長最強企業説」を述べている。
強い課長がたくさんいる会社は強い会社である。
東レのように、「課長とは管理職ではない。第一線経営者である」という考えのもとに、課内人事権を部長から課長に委譲し始めた企業もある。
これなど、課長の力量がいかに経営へ多大な影響を及ぼすかの自覚以外のなにものでもない。
いまいる会社の求める能力の尺度は、時代の変化、環境の変化に応じて刻々と変わる。
その乾いた事実から目をそらしてはいけない。
他人との差異を恐れてはいけない。
会社のなかの身内だけでなく、他人様にも多少は自慢できるそうした技量・技術を持ちたい。
他人に誇れるものがあれば、仮に会社が倒産しても、不孝にして肩叩きの対象になっても、外の世界でしたたかに生きていける。
会社から求められる能力に過剰適応してしまわずに、他の領域、他の分野にも応用が利く能力を持つことが大事である。
いままでは、組織と組織の間を動き回るいわゆるゼネラリストでもすんだ。
人生50年、六60十年時代には、会社から自分を引いてゼロでもやっていけた。
そしてゼロになった自分をいたわり、定年後しばらくしてハッピーリタイアして、盆栽でも植えて、孫の面倒でも見て、極楽浄土へ旅立っていった。
人生80年時代ともなれば、定年後、少なくともあと10年、20年は働きたい。
経済的な問題だけではなく、仕事をしないと頭もボケるし、なによりも生き甲斐がない。
しかし、定年後は会社はもう面倒を見てくれないから、定年後の設計図は自分で引かざるを得ない。
もうガチガチの会社人間ではダメだということがみんなわかってきている。
そうしたときに頼りになるのは、やはり自分である。
自分の持つスペシャリティしかない。
頼れる自分があれば、スペシャリティがあれば、いまいる会社のなかでも、余力を持った機略縦横の戦いがいくらでもできる。
腕前を磨くことは、転職を考える人だけでなく、企業でしたたかに生き抜いていくためにも必要なことである。
団塊の世代は、いまこそ真剣に悩むときがきた
考えてみれば、明治維新の原動力は、長州とか薩摩とか土佐藩を脱藩した若い下級武士たちであった。
彼らが、藩の壁を超え、一つの志のもとに自由に情報を交換し合い、連携し合った。
その結果が、体制の大転換につながった。
また、戦後復興を成し遂げ、驚異的な日本の経済発展をもたらしたのは、当時、二流、三流とされた人たちである。
言ってみれば、戦前の経営から取り残された当時の傍流である。
戦後の財閥解体と公職追放で戦時中の経営者は職を追われ、こうした若手に取って代わった。
この改革は進駐軍がやったが、経営者の年齢は約10歳若返ったと言われている。
団塊の世代は、幕末の志士、あるいは戦後の経営者の役割を果たさなければならない。
団塊の世代への期待は多少色擬せ色あせてきてはいるが、企業のなかを見渡せば、改革の中核となれる世代は団塊の世代だけである。
団塊の世代は状況のイノベーターとなる覚悟を持つ必要があるだろう。
いま、団塊の世代から上の世代が雇用調整のターゲットになっている。
本来、高度成長期に、それいけどんどんの経営者や上級管理職に、それはおかしいとブレーキをかけるのが団塊の世代あたりの管理職であった。
上と下のサンドイッチになって、ことなかれ主義で糊塗してきた責任は決して小さなものではない。
酷な言い方をすれば、いま団塊の世代が置かれている厳しい状況とは、そのときのツケが回ってきた結果とも言える。
団塊の世代は、もっとしっかりと外部の人脈を張り、自分の腕を磨き、なおかつ新人類に対して、しっかりとリーダーシップを発揮していくことを考えるべきである。
そうしないと部下はついてこないし、自分の人生もない。
人生二毛作時代に早く対処しておかないと、団塊の世代は間に合わなくなってしまう。
いまなら、まだ辛うじてだが間に合う。
たしかに、「出る杭は打たれる」という時代もあったが、「出ない杭は腐る」「出すぎた杭は打たれない」ということわざもある。
ここは思い切って、頭を出すべきではないだろうか。
声をもう少し大きくして、発言の機会を増やしてもいいのではないか。
団塊の世代の多くがいま就いているポジションは、業務の第一線である。
若い人の創造性を汲み上げ、新しい地平を拓く戦略的ミドルに変身する絶好の機会である。
実力主義に不安そうな顔など見せず、自分の隠れた個性や能力を発揮するいいチャンスがきたと前向きに受け止めるべきだろう。
よく言われるように、サラリーマンは大きなところで妥協して、小さなところで妥協しないものだ。
小さなところとは、自分に近いところである。
だから、部全体の売上げよりも、自分の課と隣の課の売上げの違いのほうが気になる。
自分の成績と隣のライバルとの成績の違いが気になる。
上司の出世レースはたいして気にはならないが、同僚との出世レースは気になる。
同僚と自分との差異を認めたくないからである。
団塊の世代は、小さなところでは妥協しても、大きなところでは妥協しない姿勢を持って欲しい。
新人類の力も借りて、幕末の志士のように、もっと世代交替の動きを早めるような揺さぶりをかけてはどうなのか。
会社のなかで、団塊の世代はもっとも大きな潜在的エネルギーを持っている。
なにしろ、数が多いし、子供のときから競争にも採まれている。
その競争を生き抜いてきたのだから、少しはハートにスタミナもあるだろう。
団塊の世代は、全共闘の闘士であれ、ノンポリであれ、本来的には中高年より新人類に近いメンタリティを持っているはずだ。
そもそも、社会に登場したとき、団塊の世代は、いまの新人類以上に「アンチ中高年世代」と言われたものではないか。
−新人類は、察しの文化は否定するが、コミュニケーションをきちんととればそれには応えてくれる。
中高年が身を屈して彼らにすり寄ろうとするより、はるかに有利な立場にある。
団塊の世代は、たしかに辛い。
だが、ものは考えようだ。
いま置かれている状況を克服できれば、団塊の世代の前方にはもう中高年のヒエラルキーは存在しない。
邪魔はできない。
というのは、そこでは実力だけがものをいう世界になっているのだから、会社のなかの多数を占めていたただの会社大事、一社一心の中高年の存在は軽いものになっている。
堂々と自分を主張し、のびやかな競争をすればいい。
サラリーマンの腕前を伸ばすのは、なによりも人より抜きん出たいという向上心、努力心である。
企業のなかの自己実現というのは、好むと好まざるとにかかわらずそうしたものである。
欲望は、ある種の人を盲目にし、ある種の人を明るくする
フランスの茂言家ラ=ロシュフーコーは言っている。
欲望には必ず、否定的な側面と肯定的な側面がある。
否定的な面だけを見て、出世レースにまったく興味がないサラリーマンにはダメなところがある。
団塊の世代には、どこかに上昇志向をばかにするところがある。
出世レースには内面でシラケたところがあって、出世競争やそうしたものに血道を上げる人間をばかにするところがある。
出世だけにこだわるのもたいした人間ではないが、団塊の世代は、出世レースの肯定的な側面も認めて、一度出世にこだわってみたほうがいいかもしれない。
それが、変革への第一歩になるかもしれない。
そのためにも、いま会社のなかでなにをすべきか、自分のためになにをすべきかが非常に大事になる。
団塊の世代は、いまこそ真剣に悩むときがきた。
まだ、燃え尽きるほどの仕事はしていない。
自分を見つめる視線をもう少し強くせよ。
流されてはいけない。
団塊の世代はイノベーターを志せ
「団悔の世代」になってはいけない
戦後の主要世代をごく大ざっぱにくくると、高度成長期を支えてきた昭和一ケタ生れの経済戦士時代、団塊の世代、新人類という三グループに分けることができるだろう。
第一世代と第二世代である団塊の世代の間に安保世代をはさむ人もいるし、最近では、団塊の世代と第三世代の新人類との間にウルトラマン世代と呼ばれる三十代前半の世代を設ける説まである。
会へ民族移動した働き蜂である。
多くは現役を引退しているが、まだ企業トップとして老骨に鞭打っている人もいる。
そして第三世代は、第一世代の息子たちで、半分近くが一人っ子、長男である。
中間の第二世代、つまり1947年から49年生まれの団塊の世代は、工業化時代の最終ランナーである。
ナイスミドルなどと言われながらも、実は可処分所得が低く、家のローンと教育費で苦しんでいる。
消費動向と収入の関係をアメリカで調査した結果だが、低所得の若年層と高所得者層には高額商品への支出が高く、中間層の高額商品への支出が低いいわゆる「消費のUカーブ」が実証されている。
日本でも、多分に同じ傾向があると考えられる。
ところで、日本の産業社会にとって歴史的な変化は、過去三回あった。
最初の変化は幕末から明治にかけて起こり、二回目の大きな変化は、第二次大戦の敗戦後の焼け跡からの経済再建から始まり、高度成長に向かう途上である。
そして三回目の大きな変化が、工業化社会からソフト化社会、情報化社会への変化である。
ソフト化社会、情報化社会という第三の波への企業適応の遅れが、いまさまざまな形で日本の産業界、労働界を揺るがしている。
この産業社会の変化にともなう経営パラダイムの変換で、いちばん辛いのが団塊の世代であろう。
団塊の世代というのは辛い世代である。
大工業時代の最後の繁栄期に企業に入り、中高年から古い忠誠心を伝授され、自分も年功序列と終身雇用の恩恵に浴せるものと励んできた。
学生時代に「社会の価値観」に悩み、分裂してきた世代が、ここへきて今度は「会社の価値観」の大方向転換に遭遇している。
若いときは安月給に耐え、耐えれば給料も上がる、地位も上がると言われ、その日を楽しみにやってきた。
上には強固な会社人間のヒエラルキーがそびえ、大量の競争相手との激しい競争があることを自覚していたから、あまり意に沿わない仕事でも徹夜までしてやってきた。
「出る杭は打たれる。あまり目立つと損だ」と脅され、上司のやり方が違うなと思うときでもあえて異議を唱えず、工業化時代の尖兵として働いてきた。
いまの若者のように自分の個性を主張することもあまりできず、突出した能力を示す機会もそれほど与えられずやってきた。
そしてやっと管理職になって、さあこれから年功序列の有難みがわかってくるというその途端に、もう終身雇用は保障できない、年功序列ではやっていけない、年功序列は終わりだと宣言されてしまった。
怒りたくもなるだろうが、年功序列が潰れているのは事実である。
「いまは苦しいがいつか日の当たる時期がくる」と言われて耐えてきた社会主義国家の国民のようなもので、当てにしていた手形が突然不渡りになってしまったような心境かもしれない。
団塊の世代は、「団悔の世代」になろうとしている。
いま40代の半ばに達し、上場企業の部長年齢にさしかかり、部長有資格者があふれている状況だ。
ピラミッド型の組織が維持できた時代には、担当部長とか部付部長などのスタッフ部長の肩書きを与え、それなりの昇進も可能だった。
スタッフ部長でも、ライン部長並の待遇で過して乗り切ってきたが、もうそれもできない。
団塊の世代が50歳になる頃には、終身雇用は音を立てて崩れている。
現に、定年年齢を従来の60歳から55五歳に引き下げる企業も出てきているし、アパレル産業のなかには選択定年年齢を45歳に引き下げた企業もある。
HOYAのように55歳から30%の賃金カットを行う企業もある。
明らかに、団塊の世代をターゲットにしたシステム変更である。
また、管理職年俸制の導入は大きな流れとなり、あと2、3年もすれば、過半数の企業では管理職年俸制が常識になってくるであろう。
私は、よく冗談半分に、全共闘時代に2、3発張られているのだから、いまさら張られることを恐れることもないだろうと言って、団塊の世代を挑発しているが、なかなかその挑発に乗ってくれない。
激しい競争に萎縮してか、組織のなかで汲々としている団塊の世代が多い。
中高年の好きな「顔で笑って心で泣いて」という感傷に、団塊の世代は自分からすり寄ろうとしているようにさえ見える。
終身雇用の幻想にしがみつこうとする中高年に過剰適応して、一緒になってわが身の不幸を嘆いている。
そして、感性や創造力にすぐれている若者に、内心かなわないなと感じている。
団塊の世代は、嘆いている場合ではない。
中高年と同じ行動を取っても、なんのメリットもない。
若者も中高年の状況を他山の石とせよ
若い労働力というのは、安くて回転が早く、足腰も強い。
若いうちは、一度や二度就職に失敗しても、まだまだやり直しは十分にきく。
若者は、時代の変化についていくのも比較的容易だが、中高年はなかなかそうはいかない。
そして日本では、中高年から首を切られるいびつな形で失業率が上がっていく。
欧米のように、レイオフされたり、採用抑制で就職できない若年層が増えて反社会活動が活発化するのも問題だが、日本のように、ソフト化、サービス化社会に適応しにくい中高年や団塊の世代から失業者が出てくることにも問題がある。
高齢化社会がさらに進めば、そうした人たちをどうするのかが大変な社会問題にもなるだろう。
ただ考え方によれば、中高年から切っていくそのドライさが日本企業の活力である、と言えないこともない。
現代は、時代そのものが若者有利になっている。
技術にしても、その革新の中身は構造変化して若い頭脳を要求しているし、価値の多様化も進んでいる。
技術もマーケティングも、若者がリード役を演じざるを得ない。
単なる知識や経験の蓄積があまり意味を持たない時代には、若者の創造力を汲み上げられない企業は、確実に衰退の道をたどる。
中高年は、若者に連帯を期待したいところだが、それもできないだろう。
雇用が差し迫った中高年のスタンスとは大きく異なるからだ。
若者にとって、雇用はそれほど差し迫った問題ではない。
雇用調整で若者か中高年かの二者択一を迫られたら、まず間違いなく中高年が指名される。
若者は、自分が肩叩きの対象になるなどとはほとんど想像してもいない。
倒産でもしないかぎり、職を失うことはまずないと考えている。
さらに、近い将来、退職金や年金のパンクもあり得る。
望むべき地位ポストも少ない。
彼らには、ベースアップや労働時間の短縮が切実な問題なのである。
考えてみれば、高度成長期に確たる人事政策を採らず、ただいたずらに雇用を拡大し、設備投資に走った経営者の責任はどうなるのか。
バブル期に、株と土地に走った責任は誰にあるのか。
これは決してサラリーマンに帰せられるものではないだろう。
「好況時には不況を思い、不況に備える」。
これが経営者の一義的な使命ではなかったか。
円高になり、営業利益が対前年比マイナスになっても、金融収支のおかげで経常利益は大幅なプラスになっていた会社は多い。
とりあえず、問題を先送りした日本の経営が破綻するのは目に見えていたはずではないか。
もっとも、企業が中高年から人減らしをしていくことは、情は別として、理屈としてはわからない点がないでもない。
たとえば労働コストが高い、新しい技術や環境への適応力が低い、新しい事業に対する発想の転換が容易ではないということなどである。
単純な経営の合理性からすれば、高給のわりには生産性が低い中高年中心に減量経営を進めざるを得ない。
ただし、中高年を生かす道は本当に少なくなっているのかどうか。
中高年、団塊の世代が余っているから、その部分の余剰を見直すというのでは、いつまでたっても片肺飛行の経済大国、片肺飛行の産業界にすぎない。
生産性と合理性だけでやってきた一・五流の経済大国にすぎないのではないか。
のびやかな感性、知性、創造力はなにも若者の専売特許ではない。
若者であれば、感性に優れ、創造的であるということでは決してない。
最近の偏差値教育が日本の知性を撲滅させ、若々しい感性を削り取ったという見方もある。
まして、男女差でもない。
個人差である。
終身雇用が崩れるということと、中高年を整理の対象にするということとはまったく同一ではない。
そこのところをどう歯止めをかけていくか、それが企業の本当の底力というものであり、その努力を怠った企業は、その後ろ向きの姿勢からいつか復讐を受けるだろう。
若者も、企業が直面している状況に安閑とはしていられないはずだ。
実力主義は掬いまの二十代、三十代には直接降りかかってくる。
能力主義で振り落とされるのは、四十代、五十代とはかぎらない。
若者に期待が大きいほど、そしてその能力に将来をかける部分が大きい時代だからこそ、選別は峻烈を極める。
事実、入社後、三年から五年で、すでに将来の選別を行っている企業もある。
金融機関などがそうだろう。
入社して数年はゆっくり、などと言ってはいられない時代である。
私は、いまの二十代、三十代の人は、中高年や団塊の世代が置かれている状況にもっと注意を払うべきだと思う。
人間というものは、二十代の時には四十代の自分というものは想像しない。
あるいは想像しにくい。
四十代になって初めて、四十代の切なさ、苦しさというものがわかる。
実力主義時代が見えてきたいま、要求されるものはなにか、自分にはその要求されるものが備わっているかを謙虚に見つめ、自分のものにしていかなければならない。
ともあれ、あと10年もすれば、年功序列と終身雇用は完全に崩壊する。
そのあと、どういう経営スタイル、人事システム、企業文化が定着するのか、残念ながら完全な形はまだ見えていない。
いまの若者は、そのドラスチックな変遷と定着を、人生のいちばん苦しい時期に体験する第一世代となる。
日本企業の若者社会化は、ますます進展するだろう。
そのスピードは、従来の比ではない。
いまの若者もいつか中高年と呼ばれるようになる。
自分が中高年になった時に、また新しい経営スタイルの模索が緊急のテーマとなっているかもしれない。
現在の流れより、それは激しいものかもしれない。
そのときのためにも、いま自分はなにをすべきか、大いに参考にし、勉強しておいて欲しいと思うからだ。
40代、50代のサラリーマンは、自分だけのシナリオを描け
40代、50代は、もう察しの文化はほどほどにすべきだろう。
もう少し、自分を見つめる視線を強くしたい。
「脱皮できない蛇は滅びる。
意見を脱皮していくことを妨げられた精神も同じことである。
それは、精神であることをやめる」
『曙光』のなかで、ニーチェはこう語った。
進歩と向上を求めない精神は、発展し得ない。
滅びるだけである。
察しの文化に割く時間を削ることで獲得した時間は、意識的に自分よりレベルの上の人に会う努力に振り向けたい。
なぜ人と会う努力が大事かと言うと、人が情報を持っているからである。
サラリーマンにとって必要な情報がそこにあるからである。
それも、自分よりレベルが低い人間では意味がない。
サラリーマンにとっての役立つ情報とは、そのつどそのつどの現場の判断の体系、判断の基準のようなものでなければならない。
情報をいくらたくさん抱え込んでも、それだけでは死んだ情報でしかない。
情報が生きたものとして立ち上がってこない。
生きた情報とは、その人なりの判断基準や価値観を持ち、解釈を示せる人との異化作用によって姿を現すものである。
情報とはちぢめていえば、二つ以上のちがった意見である。
自分よりレベルの上の人に会い、これまでサラリーマンには無線と見られてきた社外の知識や外部体験を、もっと増やすことを考えたい。
世間の話に熱心に貸す耳を持ちたい。
それがめぐりめぐって、必ずサラリーマンとしての存在をブラッシュアップする。
こうした点から、インフォーマルな勉強会が増えてきたり、いろいろな趣味のサークルが増えてきたことはいいことだと思う。
「今日の花形、明日の斜陽」とはよく言われることだが、そのスパンはだいたい20年か30年であった。
しかし、いまや極端に言うと、「午前の花形、午後の斜陽」というような潮流の激しい時代である。
サバイバル競争が激しい時代には、企業は戦略の方向を大きく変えなければならない。
従来ドメイン(事業活動の領域)のリストラ、業態再構築に成功した企業だけが、生き残れる時代である。
いままでの会社の人脈と情報だけでは通用しないところへ出ていかざるを得ないわけだから、会社のなかのことしか知らない会社人間はあまり使いものにならない。
会社のなかにしか人脈がない、会社にしか情報がない人は、会社にとっても困った存在になる。
外の世界の人脈、情報を持っている人が強い。
それが会社のためにもなる。
これはサラリーマンとして役立つだけでなく、個人としての面でも役に立つ。
一流の著者の本を読むこと、自分より能力のすぐれたブレーンを持つ必要がそこにある。
それによって自分のシナリオが描けるし、人生のスケジュールも立てられるようになる。
人生80年時代というサラリーマンの第二ラウンド、第三ラウンドを考えた場合、自分の技量をもっと磨かないといけない。
いまの会社のなかでだけ仕事ができるというのは、しょせん半人前でしかない。
いざというとき、他流試合ができるのが一人前である。
本当の人材は、どこでも通用する。
それぞれの企業文化を乗り越えられるのが本来の技量というものである。
企業文化を乗り越える力は、冷たく言えばいまの会社を乗り越えないと生まれない。
察しの文化をある程度否定して自己を鍛えないと、身にはつかない。
社内の仲間とのつき合いは、たとえば曜日を決めてやり、他の日は会社以外の仲間に会うとか、早く帰宅して趣味や勉強に当てるとか、自分のシナリオに基づいたスケジュールを立てていかないと、とてもしたたかなサラリーマンにはなれない。
シナリオの一つとして、資格取得を考えている人は、この際、なにかの資格に挑戦してみるのもいいだろう。
たとえば、厚生労働省には職種転換を支援する中高年齢労働者等受講奨励金というシステムがある。
支給対象は40歳で、中小企業診断士、社会保険労務士などの資格を取る際、入学費と学費の半分を10万円を上限として、講座終了時に支給されるシステムである。
こうした資格取得の機会は、探せばまだまだある。
自分に合った資格を探しておけば、なにかの時にはきっと役に立つ。
ただし、40代、50代の勉強はねじり鉢巻きでやることはない。
いまさら息巻いてみても、なかなか長続きはしない。
大事なことは、自分流の勉強法をマスターすることである。
やはり、自分の好きなことから手を着けることが大事である。
この分野が好きだからこの分野をきわめてやろう、あるいは子供時代の夢を実現するために勉強を始めるとかといったことでいい。
あれもこれもと欲張って、結局全部投げ出してしまうより、ある程度ちゃらんぽらんでいい。
大事なことは、とにかく継続していくことである。
他人が軽蔑するようなことでもいいではないか。
とにかく、自分が大事だと思ったことはやってみることだ。
吉田兼好が著した『徒然草』のなかに、こういう一節がある。
「一事を必ず成さんと思はば、他の事の破るるもいなむべからず。
人のあざけりをも恥づべからず。
大事にかへずしては、一の大事成るべからず」
自分が大事だと思ったことには、それなりの理由がある。
自分が大事だと思った気持ちが大切なのだ。
他人がとやかく言おうと、そんなことは気にしないことだ。
繰り返しになるが、私は、一杯飲み屋にいくなとか、会社の仲間とゴルフをするなとか野暮なことを言っているのではない。
月曜日から金曜日まで、あるいは土曜や日曜まで、相も変わらずつき合う必要はないだろうと言っているのである。
40代、50代というのは、なにかを犠牲にしないと、まともな勉強はまずできない。
たとえば、毎日会社の仲間と行っていた帰りの一杯飲み屋への立ち寄りを半分にするとか、ゴルフを半分にするとかしないと難しいと言いたいのである。
サラリーマンがしぶとく生き抜いていくためには、自分のシナリオが書けて、自分流のスケジュールを持つことを大事にすべきである。
20代にはなにをやる、30代にはこれ、40代にはこれ、50代にはこれをやると、自分のシナリオが書けて、それに基づいてスケジュールを組み立てられないといけない。
とくに、中高年は人生の半分を経過している。
団塊の世代は半ばに差しかかっている。
管理職という座に安住して、なにからなにまで会社任せ、あなた任せというわけにはもういかない。
会社における「自立」も一つの選択肢
サラリーマンに共通するストロングポイントは、「組織の中で生きる技術」と「わが社においてこれまで蓄積してきたキャリア」である。
転職、独立もよいが、その前にまずわが社の中でこの強味をもう一度活かすことを検討する必要がある。
サラリーマンの「独立」は困難への挑戦
マスコミでは、厳しくなったサラリーマン生活に別れを告げて自営業への転身、あるいはベンチャー企業創業などの成功例がはなやかにクローズアップされている。
しかし、中高年サラリーマンは、「自立」を求めてのビジネスコース選択の前に、ビジネス人としての自分の評価をもう一度客観的に見きわめておく必要がある。
サラリーマンの特性を会社への帰属意識により、次の4つのタイプに区分した。
- (1)会社中心型
- (2)寄らば大樹型
- (3)自己矛盾型
- (4)自己中心型
この4タイプいずれにも共通するのは「会社への依存意識の高さ」である。
この意識を打破してサラリーマンが自立するには、相当の覚悟と努力が必要といえよう。
これまでは、サラリーマンとして分をわきまえた行動で、会社にぶら下がっておれば何とか給料はもらえた。
独立して自ら事業を起こすとなると事情は全く違ってくる。
サラリーマンのほとんどは常識型であり冒険を好まない。
独立して事業を興すなどは、困難への挑戦ともいえる。
もちろん、成功例も多い。
後程、独立の進め方とその課題を具体的に示すものとする。
「残留」もサラリーマンとしては有力選択肢
そこでわが社に残留し、サラリーマンとしての「自立」に挑戦するのも一つの選択肢である。
いくつかのコースを検討したが、結局はこのコースに落ちつくケースが多いと考えられる。
中高年サラリーマンの多くは、「会社人間」として何十年も過ごしてきた常識型人種である。
この層がもし現在の会社を離れて、転職あるいは独立するとすればそれ相当のハンディキャップがあることを自覚しなければならない。
転職を有利にするだけの能力が自分にあるか。
独立するための有形、無形の開発資産ともいうべきものが自分にはあるか。
それが、目指す方向と合致するものであるかどうか。
あまりにもリスクは多い。
それに比べれば、居心地が悪くなったとはいえ、今の会社にとどまった方が無難だということになる。
ひるがえって、サラリーマンの強味は何であるかを考えてみよう。
第一は「組織の中で生きてきたというキャリア」である。
組織をはなれて独立するということはサッカーの選手が相撲のプロに志願するようなものである。
独立すれば自分だけでの一本勝負、失敗は許されない。
それに対し、組織プレーのサッカーでは多少の欠点はチーム全体でカバー、長所を生かしてくれる。
イエローカードは2枚までOKで、多少の失敗は許される。
さらに組織の中におれば、レッドカード、あるいはイエローカード3枚で退場するまでに、自分の能力再開発など様々なことが出来る。
つまり、その期間を利用して自己革新を行い社内における存在価値を高める、あるいは転職・独立に向けての勉強も出来る。
即ち、組織の中におればやり直しもきくし、転進の準備を整えてタイミングを待つことも出来るということだ。
サラリーマンの強味の第二は「現在の会社で蓄積したキャリア」である。
過去の栄光は捨てなければならないが、蓄積したキャリアは財産であり活かすことが出来る。
しかし、このキャリアは多少古くなり、現在では通用しなくなっているものもある。
あるいは、貰っている給与に見合わなくなっているキャリアも多い。
かくして、ベテラン社員のキャリアは貴重だが、会社としてはリストラの主対象とせざるをえないということになる。
この貴重な中高年社員のキャリアを活かすにはどうしたらいいか。
前章において、人間の脳は限りなく柔軟であり、鍛え方では老齢になってもその「脳力」はさらに伸びることを示した。
最近の学説によれば、現状に甘んずる中高年者と能力を伸ばしつづける人との違いは、脳における思考回路への対応の仕方だとしている。
いわゆる頑固老人は古い回路を捨てることが出来ず、それにこだわり続けるタイプである。
これに対したえず新しい発想を行い脳力を伸ばしつづける人は、思考回路が古くなればそれを捨て、新しい回路を作り出す頭脳のリフレッシュ機能がある人だという。
この事実を、リストラに迫られている中高年サラリーマンの立場にたって考えてみよう。
転職する、あるいは独立するということは、「現在の会社に蓄積したキャリア」を一応捨てて、一から出直すことである。
いい変えると、新しい環境にあわせて、「強制的」に自分のキャリアというコース(回路)を作り直すことである。
これを現在の会社でやってみたらどうだろう。
自分の持つキャリア、経験、技術、技能、情報などを総点検し、古くなり役に立たなくなったものは思い切って捨てる。
そして、現在とこれからの社内環境、さらには自分の今後の方向性に合わせて自分のキャリアコース(回路)を作り直す。
ここから、自己革新と社内における「自立」に向けてのチャレンジを始めることが出来る。
以上から、現在の会社にとどまりたいという常識型サラリーマンに対しては「まず、組織(会社)の中での自己革新と自立性の確立への努力が最優先する」という結論となる。
ただし、この結論には大きな落とし穴がある。
多くの中高年サラリーマンは回路が古くなった保守型人間である。
リストラの危機に際しては自己革新を思いたつが、その危機が去り会社への残留と決まればまた元の「会社ぶら下がり型社員」に戻る可能性が懸念される。
そして、もう一度危機が訪れると、今度はレッドカードであり会社からは見捨てられる。
これからのサラリーマンは、刻々と変化する社内・社外の環境にあわせて自己革新を継続して行くことが宿命となっている。
これを、「サラリーマン稼業はつらくなった」ととらえないで、「生き生きとビジネスライフを生きて行くための試練」と前向きに考えて行きたいものである。
なお、会社内における能力再開発と自己革新については、以前に述べているので具体的事項については参照していただきたい。
退職優遇制度で転籍・転職が促進される
年俸制、役職定年制導入などで中高年社員に今後の針路を考えさせたところに、今度は「早期退職者優遇制度」の導入である。
会社はの鞭の次は飴で中高年社員で退職を迫ることになる。
早期退職者優遇制度の趣旨は、一定年齢以上の社員が定年前に退した場合は、退職金の上積み等の優遇を行うというものである。
早期退職に応ずる社員にとっては退職金の増額、転職・独立など第二の人生への早期取り組みが可能になるというメリットがある。
一方、会社としても一時的な退職金負担は必要だが、長期的には人件費など固定費は軽減する、人事の停滞は回避され組織は活性化するなどのメリットがある。
表面には、企業側、中高年社員側、それぞれメリットが多いように見えるのだが…、
ここで、比較的うまくいったといわれるケースとして日本IBMの事例をとりあげてみる。
日本IBMは93年3月期は初めての赤字決算。
これを受けてリストラに着手。
50歳以上社員が対象の早期退職者優遇制度による退職者の募集、関連会社への転籍などにより、3年間で従業員数を2万5千人から2万人へと大幅に縮小させた。
すでに94年3月期決算は黒字に転換するなどリストラ効果はあがっているものの、しばらくはこの政策を継続し経営体質強化に努める方針といわれている。
同社に限らずこの制度は「あくまでも中高年の福利厚生策、第二の人生設計を早いうちに進めてよりよい第二の人生を送ってもらうためのバックアップ制度」というのが導入企業に共通する表面的理由である。
日本IBMの場合も「セカンド・キャリア支援プログラム」と称した。
同社のプログラムの概要についてみると、50〜51歳でグループ会社に転籍すれば規定の退職金プラス月額給与15ヶ月分、グループ以外企業への転職の場合は退職金プラス21ヶ月分の支給となる。
月額給与は転籍の場合、親会社在籍時の55%程度といわれるが、割増退職金を年金化してプラスするとはゞ同レベルになるという仕組みになっている。
また、転籍先の関連会社の株を退職金で購入すれば役員としての道も開ける。
この制度に応じて退職した社員1632人の行き先は次のようになっている。
・共同出資会社への転籍 845名
・他企業への再就職 380名
・日本IBMの嘱託(パート)23名
・独立その他 384名
この中で、特に注目されるのは共同出資会社である。
退職者と日本IBMの共同出資会社で、コンピュータ保守、営業事務代行、購買委託業務、人事・福利厚生・研修の業務代行、広報宣伝・セールスプロモーション、技術資料の翻訳など多岐にわたる関連会社群を形成している。
これらはそれぞれ資本金1,000万〜3,000万円の中小企業でスタートしている。
中には、コンピュータ周辺機器の開発・製造で日本IBM以外にも納入先を拡げ、すでに年商130億円を突破した企業もある。
このように日本IBMの「セカンド・キャリアプログラム」は一応の成功をおさめたわけだが、その背後には特殊でラッキーな要因があったことを認識しなければならない。
・退職志望者に時代性のあるコンピュータ関連の専門技術者が多かったこと
・それがタイミングとしてパソコンブームと重なり、再就職先に恵まれたこと
・日本IBMは同分野の日本企業に比べて歴史が浅く、関連会社の形成が遅れていたため、系列会社設立のニーズがあったこと
・経営の合理化策の一つとしてアウソーシング(業務の外部委託)を進める必要があったこと
・したがって、業務を知悉している退職者を主体とする各種サービス会社(退職者には受け皿会社)設立の必然的ニーズがあったこと
このような二重、三重の幸運に恵まれたケースは滅多にない。
一般的には、中高年退職者の行く手はなかなか順調とはならない。
ここに日本の代表的商社A社の優遇制度による退職者のその後についての分析資料があるが、成功例はあまり多くない。
成功組とは商社時代の取引先へ好条件で転職した者、専門性を生かしてのコンサルティング会社を設立した者、大学に迎えられた者などがある。
失敗組(現在模索中も含めて)は、割増退職金を元手に独立開業したものの武家の商法で失敗した、以前の会社、人材銀行などの斡旋を受けているがいまだ求職中(失業中)の者、泣く泣く年収4割ダウンの会社に再就職した者など様々である。
こうした早期退職者優遇制度の導入状況であるが、上場企業で51.6%、2年前に比べて12.0%もアップ、導入企業は増加傾向にある。
これに導入検討企業9.0%を加えると6割以上の企業で実施されることになる。
また、規模別にみると従業員1,000人以上の大企業は71.4%が導入済みで、現在導入を進めているのは1,000人未満の中堅企業、中小企業が主流となっている。
年俸制、役職定年制で示したように、今は、会社に残るのも大変な時代である。
そして退職者優遇制度の結末にみるように「去る」もまた大変な時代である。
日本IBMの事例はきわめて特異なケースである。
再就職にあたっては50代の求人倍率は0.1倍、10人に1人しか仕事につけない、運よく見つかったとしても、中高年の場合は以前の年収の30%ダウンが普通で、半減することも珍しくない時代である。
しかし、こうした賃金評価は不当に低いのではない。
これまでぬくぬくと年功制度に守られて高賃金を得ていた「会社人間」が会社の外に出て再スタートするにあたっての市場価格と知るべきである。
裸の自分に対する現在の評価を受け止め、底辺から再出発する覚悟があればいろいろの可能性も見えてくる。
着眼したい分野としては、例えば人材不足に悩む中堅・中小企業、地方企業。
雇用創出力のある流通、サービス、福祉などの事業領域等々様々である。
手をこまねいているだけでは何ともならない。
経理・財務等の管理職、マーケテイングの専門職を求めているある中堅企業の経営者は次のように述懐されている。
「面接しても裏切られることが多い。
最も役にたたない人種は、一流大学あるいは有名企業出身でプライドが高く、かつての肩書きに固執するホワイトカラーだ」。
かつての栄光を捨て裸の自分からスタートしようとすれば道は開ける。
年収が30%落ちようと、50%落ちようと、あとは入った会社で実力で取り戻すことだ。
ここでも「一歩後退、二歩前進」の前向きの姿勢が大切である。
退職金が減る
「このままでは退職金倒産が起こる」と早くから日本型雇用システムの課題として退職金制度は問題視されてきた。
ただ、定年者が増大する、不況だからという理由だけでいきなり改訂もできず、厳密で納得性のある基準の設定が必要であり、企業の多くは現在試行錯誤の段階にあるといえる。
改訂の狙いは二つあり、第一は退職金支給基準の抜本的見直しであり、第二は年金化である。
いずれにしても、退職金負担を減らしたいというのが企業の本値である。
基準改訂の基本的方向は退職金の上昇カーブ抑制。
そのために、ベアを退職金算定基準から外す、50歳以上を一律定年扱いとするなど一定年齢で支給金額を頭打ちにする、年功による一律査定ではなく貢献度も加えた2本立ての算定基準の設定などが検討課題となっている。
年金化は、厚生省の公的年金支給年齢の改訂がその背景にあり、公的年金支給開始の空自期間の穴埋めという狙いもある。
企業サイドにも原資の確保と資金圧迫を回避するメリットがある。
方法としては、退職金を100%年金化、「一時金」・「年金」の複数パターンを設定し選択させる、年金選択の場合は特別加算金を上積みするなどが検討されている。
以上、退職金についていえる確かなことは、制度が大きく変わり、
たいした貢献もなく年功だけを重ねている人の退職金は増えない、
増えないどころか現在想定している退職金よりも相当低い退職金しかもらえない、
そんな時代が近い将来やって来るということである。
会社の能力再開発支援を活用せよ
会社はまず能力再開発を求める
大競争時代、会社が中高年サラリーマンに対してとる道は二つしかない。
第一は「積極的活用」であり、第二は「排除」である。
自分のこれまでのキャリア特性を中高年者に分析してもらうと
「つぶしの効かないサラリーマンタイプ」
「会社からの評価が不当に低いスペシャリストタイプ」
「適当にやっていれば何とかなるさの自由人タイプ」
という層が本音部分では最も多い。
そして、この層は「今更キャリアビジョン再構築といわれても困る。
先が見えない、能力開発といっても限界がある」と考える傾向にある。
こうしたキャリアビジョンを持たない中高年層が会社としては最も対応に困る社員層である。
そこで、会社はキャリアセミナーなどを行い、キャリア目標の再構築とそれに向けての能力再開発をうながすことになる。
会社は「会社」という立場で、脱落する社員を少しでも救済しようというわけである。
会社の中高年社員に対する能力開発の狙いは次のように区分される。
(1) 同一職種内の業務の能力開発
業務の高度化・複雑化と技術革新などの変化に対応する能力再開発である。
全社員にも必要だが、中高年者の場合は対応が遅いし、時には拒絶反応もある。
また、中高年者の場合は能力の陳腐化を防止する意味もある。
(2) 類似性の低い職場への能力
開発リストラ、リエンジニアリングに伴い、部門間・職種間の配置転換がある。
出向・転籍でも職種転換のケースがある。
それに対応する転換教育と能力開発である。
(3) 職場環境変化への適応能力開発
出向・転籍・転職などにより、職場環境が大きく変わる場合である。
多くの場合、規模の大きい会社から小さい会社に移る場合が多く、意識改革を図る必要がある。
中高年者の能力開発ポイント
同一職種内の能力開発は、従来はほとんどの部分を企業主導のOJT(仕事を通じての企業内教育訓練)によって行われてきた。
しかし、最近は業務の高度化と内容の変化、技術革新とそのスピードの早さに適応するためにはOJTだけでは不十分で、Off・JT(企業外の教育訓練)を増やす企業が増えている。
情報化一つとってみてもOff・JTに一般企業の場合は頼らざるをえないことが多い。
中高年者についてみれば、中高年対象の独自のコースを設定し受講しやすくする必要がある。
また、既得の知識・技能・学習能力については個人差が大きく、レベルに応じたコースの細分化も大事とされている。
次に、職種転換のための能力再開発についてみると、40代の者は20代の者の2倍の教育訓練期間がかかるといわれ、中高年者の転換に対しては厳しい見方が多い。
しかし、転換する職種によって一概には云えないが、少なくとも教育訓練のやり方によっては、かなりの年齢までは転換は可能とされている。
さて、こうした中高年社員の場合、情報機器教育など新しい内容で、記憶量が多く微密な作業を含む教育についての学習速度は特に遅い。
しかし、中高年者の特性を十分に把握した上で、それに対する学習を実施することで、一定のレベルまでの能力開発は可能である。
中高年社員の意識面における主な特性は次の通りである。
(1) 自己概念が、自分中心・自己主導型人間へと移行している
(2) 経験の蓄積が増大し、それが学習への資源であると同時に、学習の抑制要因ともなっている
(3) 学習目的として、会社における役割をはたすためという意識が強い
(4) 学習結果を将来応用するよりも即時活用することに関心があり、問題解決指向的である。
こうした特性に対応する学習のやり方は「マイペース」重視である。
つまり、「教え込む」というやり方ではなく、「自己点検・自己学習」「マイペースの発見的学習」「実際的な課題と教材」などによる学習である。
これにより例えば情報機器教育においては中高年者の「パソコンアレルギー」を克服し、学習への定着率・習得速度を高めるなどの効果をもたらしている。
職場環境変化への対応ポイント
出向・転籍・転職が決まってからの能力再開発では遅い。
こうした事態を想定したキャリアプランをつくり、もっと早い時期から準備学習をするのが基本だという意見がある。
これは正論であるかもしれない。
しかし、終身雇用を前提に入社し何十年もサラリーマンとして過ごしてきた中高年層にはこの考えがなじまない。
しかも、リストラという嵐に巻き込まれ、ある日突然にこうした事態に遭遇したというケースが最近目立って多くなっている。
定年退職者は別として心構えも、準備もない。
こうしたリストラの対象となった中高年社員に今言えることは、
第一には「企業エリート意識を捨てるなどの意識改革」、
第二には「これを機会に自己啓発と能力に努めること」。
つまり、「一歩後退、二歩前進」前向きに行動を起こして下さいということである。
中高年者の出向・転籍・転職の多くの場合は、親会社から子会社・関連会社へ、大企業から中小企業への移動である。
こうした場合の基本的心がまえとして次のようなことがあげられる。
・エリート意識を捨てる……親会社などかつての会社の方向を向かず、自分が上だという姿勢はとらない。
また、常に柔軟な思考を持ち、状況に自分をあわせていく。
・新会社の特性の理解……事業内容、経営特性、長所・短所などを客観的に把握すると同時に、まず相手会社とその社員を理解することから始める。
・相手会社に溶け込む……1人何役、中小企業には大企業と違った企 業風土がある。
組織体制、仕事の分担、責任権限、人間関係などの 違いをつかみ、ひとまずそこに溶け込んでみることだ。
本当の自分を発揮するのは実績をあげてからでも遅くはない。
会社は中高年を簡単には排除できない。
一通り救済策として能力再開発の機会と時間を与えてくれる。
それを素直に利用することだ。
今の会社に残る、出向・転籍・転職する、独立する、いずれのケースでもビジネス生活をする以上必要なことだ。
損はない。
外部機関による教育コースも活用できる
Off・JT(企業外教育訓練)が中高年社員の能力開発に重要だと述べたが、参考までに外部機関による教育訓練コースの代表的事例を紹介しておく。
生産性本部の「専門能力開発講座」「キャリア・リフレッシュメントプログラム(中堅・中小企業経営幹部養成講座)。
これは自らの能力再開発だけでなく、転職の場合の準備講座としても利用されている。
早期退職者優遇制度を推進している企業には対象者の受講を義務づけているところもある。
受講料の会社負担は当然である。
中高年者個人としては、労働省の外郭団体である雇用促進事業団が実施している「職業能力開発講座」が負担が少なく効率的。
主対象は55歳から65歳の中高年で、自分のこれまでのキャリアを磨く「マスターコース」と経験のない技術を身につけるための「構造転換コース」がある。
無料であり、セミナーの内容、期間を個人に合わせるなど、きめ細かな対応が特色といわれる。
会社による支援を出来るだけ活用しつつ、積極的に外部機関も利用すべきである。
会社はどこまで頼れるか、見極めをつけよ
会社は、キャリアプランの再構築と能力再開発、中高年再雇用制度などの中高年社員に対する思いやり対策を示す一方で、雇用調整のしたたかな手を打ってくる。
年俸制といった実力主義の賃金制度への転換、組織の簡素化と役職の切捨て、役職定年制の導入、早期退職・転進援助制度の導入、退職金・年金制度の改訂などである。
役員、役員待遇のスペシャリストなどの実力者を除いての一般社員にとって会社はますます住みにくいところになって行くようである。
仮にリストラを逃れたとしても定年まで残るとすれば相当の我慢を強いられることになる。
また、残ったとしても経済的メリットも次第に少なくなる。
中高年サラリーマンは、人事制度面からも
・実力社員として会社に勝ち残るか
・我慢に我慢を重ねて、ただひたすら会社にしがみついて生き残るか
・新天地を求めて転社、あるいは独立する
という三つの選択肢のうちのどれを選択するか、決断を迫られているのである。
以下、中高年社員を主対象とする。
人事対策の現況について概観するものとする。
役職定年・任期制でリストラを迫る
中高年社員リストラに狂奔する企業の実態とは別に、社会的には高齢化時代を迎えるにあたって定年年齢の引き上げが要請されている。
企業側からみれば定年延長という措置は、役職者の高齢化、人件費の増大、人事の停滞を招くといった問題がある。
そこで、こうした弊害を防止し組織に活力を持たせようとする人事対策が、役職に任期・定年を持たせようとする制度である。
このうち、役職定年制は役職ごとに、退任しなければならない年齢を設定、その年齢に達した時に役職を退任するという制度。
一方、役職任期制は一定役職についてから退任、あるいは昇格までの期間を限定、その期間が過ぎれば年齢に関係なくその役職を退任するというものである。
制度としては、前者の役職定年制が一般的である。
役職定年制の狙いは次のようになる。
(1)リストラ……肥大化する中高年管理者のスリム化と人件費の圧縮
(2) 組織活性化……中堅以下若手社員の働く意欲を刺激し、生産性を向上させる
(3) 人材育成……若手社員に目標を持たせ、人材の早期育成を促進する
この役職定年制は、企業が中高年の賃金と雇用を抑え込むことをねらいとしており、いやなら転退職を迫るというもので中高年管理者層にとってはかなり過酷なものといえる。
アクションプラン作成のポイント
キャリア目標を達成するためには、どの強味を生かし、どの弱味を補うかを認識して現実の行動にどう結びつけるかが大事である。
一般的には、必要な人的資産、情報としての知識は持っているが、それを使いこなすスキルに欠けていることが多い。
目標達成に不可欠なスキルは日常業務を通じて強化できる。
強化すべきスキルの取得を念頭において取り組めば、同じ仕事に対してもアプローチの仕方が変わり、問題発見力、戦略立案力などのスキルを集中的に高めることが可能である。
また、「自分が経営者ならばどのような判断を下し、どのような行動をとるのか」を徹底的に考える訓練を行えば、企業経営に必要なスキルは総合的に高められる。
既成のアクションプランというものは存在しない。
各自の価値観、人的資産、性格に基づいて、自分自身で作成するしかない。
重要なことは、キャリア目標達成に向けて、何をいつから、どう実践するかということである。
自己分析のポイント
価値観の把握
自分を活かすためには価値観に基づいたキャリアを形成しなければならない。
したがってビジョン策定にあたって最も重要なのは、キャリアに関して自分は何を大切に思っているかの把握である。
キャリアに対する価値観はゼネラリスト、スペシャリスト、サラリーマン、起業家、芸術家、変革者、自由人の7つのタイプに区分できる。
自分に近いと感じるタイプの特徴を理解した上で自分はキャリアに対してどのようなことを大切に思っているか(価値観)を自覚するべきである。
人的資産の分析
人的資産とは、これまでのキャリアで築きあげてきた知識、スキル、姿勢、経験である。
この四つを分析することにより、現在の自分にはどのような仕事が可能か、不可能かがわかる。
自分の現状を客観的に把握できれば強化すべき点もわかり、効果的アクションプラン作成が容易となる。
a 知識の棚卸し
ここでいう知識とは、ビジネスに関する情報量である。
自分のキャリア目標を達成させるために必要な知識は何か、生かせる知識と足りない知識を判断し足りない場合は勉強して補わなければならない。
マーケティング・営業、生産管理・オペレーション、財務・経理、人事管理、経営戦略・企画、情報技術・システム、技術・研究開発などビジネス各分野において自分はどれだけの情報量(知識)を持っているか。
その強み・弱みは何か。
b スキルの棚卸し
スキルとは知識を使いこなして実際に仕事を達成する力のことである。
企業が求める能力の中身が変化したということは、必要とされるスキルも変わったことを意味する。
これまでは財務遂行力や業 務管理力が重視されてきたが、現在では創造力、問題発見力、戦略立案力というスキルが重要になってきた。
このようなスキルを身につけるためには、どのスキルを伸ばすかを明確にし、スキル向上という目的意識を持って仕事に取り組む必要がある。
自分の持っているスキルの強味・弱味は何か。
仕事を達成する能力を自覚しなければならない。
C 姿勢の棚卸し
姿勢とは仕事を進めていく上での心構えのことである。
姿勢の持ち方によって知識やスキルが身につくか、仕事が達成できるかどうかが決定される。
自分はどのような姿勢を取っているだろうか。
強味・弱味を明確にし、自分の姿勢について自覚しなければならない
d 経験の棚卸し
経験とは、知識・スキル・姿勢という人的資産が具体的に表現された過去の記録である。
記録を点検することにより、自分がどのように人的資産を運用して仕事を達成してきたかがわかる。
過去においてどのような仕事を達成してきたか。
リストアップし、各経験において知識・スキル・姿勢をどう生かしたか認識する必要がある。
性格の把握
キャリアビジョン策定において、自分の性格を心理的傾向でとらえる必要がある。
キャリア目標を達成する上での前提条件である。
目標が明確になれば、自分の心理的傾向をキャリアに生かすことが出来る。
例えば、内向的かつ神経質で物事に敏感な人の場合、研究やシステム開発にキャリア目標をおけば、性格をそのまま生かすことが出来る。
一方、営業・マーケティングがキャリア目標とすれば、表面的にはうまくいかないようにみえる。
しかし、物事に敏感であるという特質を仕事に生かすことができれば、細かい気配り、相手の微妙なニーズの把握により、外向的な人には出来ない顧客アプローチを行うことができる。
キャリア目標設定のポイント
最高のキャリアとは、自分にとって本当にやりたいことを実現することである。
短絡的に現在の強みを生かそうとするのではなく、総合的に自分をとらえる必要がある。
即ち、自分の価値観を土台として、現在の人的資産の強味と弱味、性格の全体像を把握した上で自分に最適のキャリア目標を発見すべきである。
また、キャリア目標は具体的かつ生き生きとしたイメージでは表現出来なければ、目標としての役割ははたさない。
キャリア目標を設定するためには、自分に関するすべての事実を読み直す必要がある。
自分を見つめることで、自分が本当にやりたい仕事は何かを考える。
そのうえで自分が目指すキャリア目標を設定し、明確なイメージをつくらなければならない。
中高年・シニアの自立と、その準備
大変な時代、会社に残る、会社を去る、そのいずれにせよ、自分の力で仕事を確保し、あるいは開拓しようとする位の積極性が、今、中高年サラリーマンに強く求められている。
つまり、リストラの波を乗り越え人生80年時代を生き抜く第一関門は「ビジネスライフにおける自立」ということである。
この仕事面における「自立」なしには、これからの物心共に豊かで自由な“自律”するシニアライフの構築は難しい。
ここでは、ビジネスライフにおける「自立」には何が必要か、そのための準備はどうするか。
まず、現在の会社の中にあって出来ることから検討を進めるものとする。
まずキャリアビジョンの再構築
(1) これまでは会社主導のライフプラン教育
大企業を中心に多くの会社でライフプラン教育 − CDLP(Career Development Life Planning Program:職業生涯生活設計プログラム)が行われてきた。会社主導で行われてきたこれまでのCDLPは「中高年になっても能力再開発等により会社への貢献度を高める努力を継続し、やがてハッピーリタイヤメント − 幸福な退職生活を迎える」というストーリーづくりに特色があった。
つまり、終身雇用制を前提として「定年までの自分を会社の中にどう位置づけるか、退職までに何を準備するか、定年後どう暮らすか」が主な狙いであった。
そのポイントは
・40歳代で実施する場合には、自分の適性を見極めさせる。
・会社におけるキャリアには様々選択肢があること、それをどう自分の適性に結びつけるかを動機づける。
・なお、選択肢の中には「転職」というコースも設定されるケースもあるが、かつてのそれは形式的なもので、それを選択するものは例外的な脱落者、あるいは「山っ気」のある社員とみなされるのがオチであった。
・定年前の実施では「定年退職」という事実を意識づける。
・定年までの収入、退職金、定年後の年金収入などを推計し、退職後の生活についてのシュミレーションを行う。
・シュミレーションに基づいて定年後の生活設計を行い、将来の生活に自信をもたせる。
・定年後の生活指導を行う。再雇用制度、OB組織などの案内、OBによる体験セミナーとコンサルティングなど。
この時代の人生設計プログラムは、「会社が名実共に終身雇用を保証し、定年後についても面倒をみる」という、人間尊重の旨とした「日本的経営」を背景としたものである。
例えば老後の経済生活についてのシュミレーション。
欲さえ出さなければ安定した人生設計が措けた。
即ち、定年まで収入、退職金、年金収入は多少の誤差はあっても凡その推計は出来たし、あとは家族構成、子供の教育費、住宅ローンの残高によって若干の差異が出る程度である。
単線型で安定した人生設計が会社によって保証されていた。
その頃の楽天的な人生設計プログラムの事例として、ある大企業のケースをかゝげる。
同社の場合は、年数段階によって次のようなライフプラン教育を行っていた。
・入社時:フレッシュプラン
・30歳:ヒューマンプラン
・40歳:シルバープラン
・45歳:リデザインプラン
・55歳:ゴールドプラン
キャリア計画は自分のためのものだ
現在、会社が雇用を保証する時代から、個人が自分で雇用を確保しなければならない時代へ、時代は確実に移りつつある。
その背景には、次のようなものがある。
・終身雇用を中心とした日本的経営が崩壊しつつある。
・一方、個人サイドからも自己実現重視の視点から雇用の流動化へのニーズも高まっている。
・企業が社員に求める能力も企業環境の変革に対応して変化し始めている。
与えられた仕事を一生懸命忠実にこなすだけで、いたずらに 年功だけを重ねて行く社員よりも、変化に対応したキャリアの開発が出来る社員を企業は求めている。
・平均寿命も伸び、いよいよ本格的高齢化時代に突入する。長期的にみれば、現行の年金制度の破綻も予想される。
人生80年とすれば、最後の20年においても何らかの形で働かざるをえなくなることも想 定され、老後の生活までふまえたキャリア開発も必要になる。
その結果、会社が敷いてくれた路線に乗った安全で確実なCDLPの設計が出来なくなってしまった。
つまり、生活設計を行う前に、まず自らのキャリアの抜本的な見直しとキャリアプランの再構築が求められることになったのである。
それは従来の形式的なものではなく、これからの生活を賦けた真剣なキャリアの再開発計画でもある。
しかも、企業はリストラブーム。
企業サイドが推進しているCDLP制度は、中高年層にとっては結果的には雇用調整策の一つにもなりかねない。
早期退職制度、転進援助制度、さらには役職定年制度などとも連動している。
日本IBM社が93年度から実施した「セカンドキャリア支援プログラム」はその代表的なものである。
こうした会社主導による「会社に云われたからやる」という計画では自分が目指す方向と違ったものになりかねないし、時期すでに遅し、ということも十分にありうる。
キャリアデベロップメントプラン(CDP)は自ら主体的に計画すべきものである。
自らで自らのCDPを再構築することは、現在の会社で仕事を続ける、今の会社を思い切って飛び出し転職をする、独立する、そのいずれを選択することにあたっても、決断の基本となるものである。
何を目指すか、キャリアビジョンを鮮明にせよ
中高年サラリーマンにとって、今、最も大切なことはキャリアビジョンの再構築である。
時代が変わった、会社も変わった、会社がサラリーマンに求めるものも変わってきた。
中高年ベテラン社員の何十年のキャリアもそのままでは役にたたなくなりつつある。
そこで、自分を見つめ直し、自らのキャリア目標を設定し直すことが必要となったのである。
キャリアビジョンとは何か。
自分がこれから何を目指すか、仕事という軸を中心におきながら自分の人生を考えることである。
単なる仕事を何にするかではなく、環境変化の認識と客観的自己分析に基いてこれからの自分の人生ビジョンを作り直すことでもある。
このキャリアビジョンが出来て始めて、これからの時代にふさわしい、そして自分のためのCDLP(職業生涯生活設計プログラム)の設計が可能になる。
厳しい現実を直視し「自立」を目指せ!
変わらないのはサラリーマンだけ
社会が変わった。 会社も変わる。
サラリーマンの人生コースもそれに応じて変化するのはきわめて当然のことである。
しかし、サラリーマンの多くは依然として会社依存志向が強く変化に取り残されている。
サラリーマンだけは変わっていない。
最近、よく「サラリーマンのライフサイクルは変わる」という言葉をよく耳にする。
つまり、これまでのように会社に入ったら最後、定年まで勤めあげるのが人生だという時代ではなくなったという意味である。
そして、
25歳位までは修業の時代、
40〜45歳位までは会社の組織の中で仕事をする、
45歳前後を一つの区切りとして、新しい生き方の選択をすべきだというのである。
新しい生き方といっても、会社に残るもよし、転職するもよし、全くビジネスと離れた別の人生の選択もまたよしとして、物心共にゆとりある人生への再スタートを切るべきだという主張でもある。
こうしたこれからの時代を見すえたライフサイクルの設計は、ビジネス社会に入ったばかりの、あるいはこれから入ろうとする若い人にとっては容易かもしれない。
だが、数十年を会社人間として過ごし「今いる会社を離れた人生は考えられなくなっている」中高年サラリーマンにとっては深刻な受けとめ方となる。
社会の変化、企業の変化について行けず、会社では次第に不要の存在とならつつある。
さりとて、時代にあわせて自分を変えることもなかなか出来ない。
しかも、わが社にもリストラの嵐が吹きまくろうとしている。
ゆとりある人生の再設計どころか、明日の生活がどうなるか、不安でいっぱいだ……。
中高年サラリーマンについてみれば、こうした「弱者」であるケースが多いのではなかろうか。
「弱者」中高年サラリーマンへの提言
現在、弱者に位置づけられている中高年サラリーマンの一つの生き方は「一歩後退二歩前進」である。
会社の中核として勝ち残るのは自分だ、今の会社よりも好条件で他社にスカウトされる自信がある、自立する自信もあるしその準備も出来ている……、
こうした「会社とケンカしてでも自分を貫き通す」自信満々の「強者」であるサラリーマンはごく少数派だ。
ここで検討してみたいのは、もしリストラの対象となれば、「配置転換とか出向とかに従順に従う」か、「多少は抵抗するが、結局はやめてしまう」ことになると思い込んでいる弱い立場にある中高年サラリーマン、言い直すと自分を「敗者」と思い込んでいるサラリーマンのこれからの生き方についてである。
ある日、突然にリストラの通告を受ける。
自分が何故リストラになったか、始めはわからない。
すでに述べたように会社の人事は大体は非公開だし上司の自分に対する評価もよくわからない。
自分にはこれまで会社の発展に貢献してきた功労者だという自負もある。
自分だけはリストラされるはずはない。
何故……。
しかし、今になって考えてみると自分にはいろいろ問題があった。
自分は「サラリーマンとして敗者であったのだ」、そして、敗者として、早期退職優遇制度、配置転換、出向に応じようとする。
重要なことは、自分を「敗者」と思い込まないことである。
倒産の危機など緊急事態に陥らない限り、真面目に勤めあげてきた中高年社員をそう簡単に会社は退職に追い込むことは出来ない。
配置転換、出向、降格など、会社は思いやりのある、時には陰湿でもあるが、やめざるをえなくなるまでの「時間」を与えてくれる。
この時間を前向きに自己啓発の期間、一歩後退二歩前進のチャンスとするのだ。
新天地の職場に移る、役職から解放されるということはそれだけ自己啓発を必要とすることであり、多くの場合その時間も支えられる。
そのためには、まず、第一に自分を見つめ直すことである。
自分についての徹底的な棚おろしと客観的評価である。
問題点だけではない。
何が自分の特性であるか、過去の蓄積を活かしこれから伸ばせる能力の発見がより大事である。
第二には、自己の特性をふまえて、何を目指すか、やるべきキャリア目標の設定である。
第三には、キャリアプランの再構築、今置かれている現状からスタートしていかに目標を達成するかの実行計画である。
第四には、以上の目標とスケジュールに従っての自己革新である。
ビジネスキャリアには様々な革新事項はあるが、その根底にあるのは「会社人間」から脱皮し、「自立」する自分の確立である。
そして、自立する自分の確立が出来た時が、新しい人生への再スタートとなる。
現在の会社に残るならばその中での中核人材への挑戦、有能な人材として転職、独立、あるいはビジネスとは別次元の自分なりの人生へのスタートなど、前向きの形での再スタートへの道が開けてくる。
即ち、サラリーマンとしての「強者」への転換である。
ただし、これからの時代の強者とはビジネス上の強者だけでなく、自分なりの生き方を発見しその生き方を実践するものまで、幅広いものとなろう。
このキャリアプラン再構築について、ここではリストラされかねない弱い立場にある中高年サラリーマンを対象として述べた。
しかし、これは何も弱者の中高年に限ることではない。
自分は強者と思っていても、変化が激しい昨今、いつ弱者へと落ち込むかもしれない。
そして、これは基本的なことなのだが、社会のすう勢は「会社は定年までの生活を保証しなくなる」ということであり、
全サラリーマンにとって「会社をはなれても生活できる」というキャリアプランも、実は必要になっているのだ。
追い込まれてからでは対応が厳しい。
また、あらかじめ「自立できるキャリアプランとある程度の準備と心がまえ」があれば、いかなる状況がおころうと、会社に対して、力強い機敏な対応が可能だ。
会社に残ろうと、転職しようと、独立しようと、現代のサラリーマンにとって、「自己の見つめ直しとキャリアプランの再構築」は基本的に必要なことなのである。
中高年の能力とキャリアは、まだまだ伸ばせる
中高年になると、「能力は伸びない」とするのは誤りである。
確かに記憶力などは年齢と共に下降して行く。
しかし、能力と知能には様々なものがあり、その中にはまだまだ成長するものもある。
また、職業的キャリアは本人次第でもあるが、これからもさらに蓄積して行くことが可能である。
中高年であっても知的能力は向上できる
比較的新しい学問として「生涯発達心理学」がある。
この学説がなかった25年ほど前までは知能には30歳から下降するというのが定説となっていた。
しかし、それは若い人を主対象としていた知能テストからの一面的判定であった。
生涯発達心理学によれば、知能には「流動性知能」と「結晶性知能」があり、その両面で知能の発達をとらえる。
第一の流動性知能は、いわゆる知能テストで判定される知能であり、児童期から青年初期の早い時期にピークに達する。
第二の結晶性知能は、語彙や社会的知識などの経験に裏打ちされ加齢と共に上昇して行く知能である。
これによって、職業、芸術、趣味など長期間その道に関わっていれば、年齢と共に能力は成長しつづける。
こうした人々は「エキスパート」と呼ばれ、その典型的なものは 齢の作家・画家などの芸術家、古典芸能・伝統工芸における名人である。
中高年ビジネスマンの場合も、これまでのキャリアを継続して磨きあげることにより「ビジネスエキスパート」になることができる。
キャリア発展の分岐点は45歳
知能の発達とは別に、「生涯キャリア発達」について研究がある。
それによれば、職業生活におけるキャリアの発達段階は大きく3段階に区分される。
(1) 探索段階……25歳頃までの大人の世界に入るまでの時期であり、平均的にみればキャリアは向上しない。 試行錯誤段階ともいえる
(2) 向上段階……25歳頃から45歳頃まで、試行錯誤を経て、本格的に職業的キャリアを蓄積して行く段階である
(3) 分岐段階……45歳を境にキャリアパフォーマンスは「成長・現状維持・停滞」の三群に分けられる。
その差異は、キャリア発達を意識した上で業務を行うかどうかにあるとしている。
どうやら45歳が、中高年のビジネスライフを左右する転換点であるようだ。
そして、この時期における能力開発への意識づけが最重要書題となっている。
これまでの平々凡々であるが順調ともいえたサラリーマン生活においては、中高年の能力再開発について特に動機といえるものがなかった。
現在は厳しい企業リストラの時代、中高年サラリーマンはたえず配置転換、出向、転職などの危機にさらされている。
これは強烈で切実な能力再開発への動機となる。
皮肉な見方をすれば、その結果、これまで眠っていた潜在能力が開発され、それにより新たなビジネスライフが拓けるとしたら、中高年者の後半生にとってむしろ幸運ともいえる。
変化に対応出来ない中高年サラリーマン
以前の記事で、「中高年サラリーマンよ。勝ち残るために自己革新と自立を目指せ」と提言した。
多くのサラリーマンの方々はおそらく、
「そんなことはわかっている。
しかし、理想論だ。
実際に出来ることならばとうにやっている」
と思われるに違いない。
ここでは、「わかっていることが、何故出来ないか?」について考えてみよう。
変化に対する共感性欠如とアレルギー
「この会社に入れば、決められたことキチンと忠実にやっている限り自分の一生は保証される」、
日本的経営はこうした寄らば大樹の陰という会社従属型社員集団をつくりだしてきた。
経済も市場も限りなく拡大しつづけるように見えていた。
会社も永遠の生命を持って発展しつづける。
業界は護送船団方式で戦略は横ならび。
社員は終身雇用・年功賃金という人事制度と企業内組合に守られている。
経営のやり方は全社員参画による意志統一。
協調重視の集団的チームワークが最も生産効率が高いとされた。
ここでは、企業も社員も、現在起こっているような大変革を予想しようともしなかったし、あえて変化を求めるような行動も排除された。
何故なら、何か違うものにチャレンジする、自己主張する社員はチームワークを最重視する会社という集団からは異分子として弾劾されたからである。
つまり、日本のこれまでの会社社会は「出る杭は打たれる」仕組みであったのである。
かくして、変化に鈍感であるか、あるいは変化を見ても見ないふりをする、変化にどう対処するか、その方法もわからない……、
即ち、変化に対する共感性と免疫がないままに、会社も社員も現在の大変革の時代を迎える迎えることとなったといえる。
中でも、順調すぎたともいえるサラリーマン生活をこれまで何十年も続けてきた中高年にとっては事態は深刻である。
これまで絶対大丈夫と信じていたサラリーマン社会が崩壊しようとしている。
まず第一には、リストラの嵐の中で早期退職優遇制度などで中高年社員に対する肩たたきが始まった。
会社は社員の面倒を一生みるという終身雇用制度を切り捨てようとしている。
先が見えない、この先どうしたらいいかという先行きに対する不安は高まるばかりである。
第二には、年俸制などインセンティブのある実力給の採用。
集団協調主義からスタープレイヤー重視型の給与制度への転換であり、自分はどう行動するか、どう自己を主張するかがわからないし、またその自信もない。
予想だにしなかった会社とそれをめぐる環境の大変革に遭遇、戸惑い、不安、そして自信喪失の状況にあるのが、中高年サラリーマンの多くの現状といえはしまいか。
気がつけば、会社にとって不要の存在
気がつけば、時代に取り残され、ツブシの効かない、会社にとって不要の存在になっているのが、上述の変化に対する不感症サラリーマンの最終的な姿となる。
何故、こうなるか、もう少し分析してみよう。
(1) 自分についての客観的評価が出来ない
企業の人事は一般的に非公開。
中高年の場合は上役がどう自分を評価しているかあいまいにしたまま何十年も勤めてあげてきた。
例えば、事務系管理職は最も生産性が低いと企業は最近認識し始めた。
中高年ホワイトカラーはそこに気がついているだろうか。
給与に見合うだけの稼ぎをしているだろうか。
その一方、自分は会社のこれまでの発展に貢献した企業戦士だという栄光を自負、リストラがあっても自分だけはわが社に残れると考えている。
ある会社だけの、しかも過去の栄光は第三者からは全く評価されない。
(2)環境変化への対応が消極的である
わかりやすい事例でいえば、「OA機器アレルギー」。
パソコンと 聞いただけで若手社員、女子社員に委せるという逃げの姿勢になる。
環境変化に対する逃げの姿勢はビジネスマンの現役引退であることに気がつかない。
(3)指示待ち人間として育っている
中高年の多くは環境変化への対応は経営者の役割で、自分たちはその指示に基づいて行動すればいいという発想が根づいている。
トップや上司に対して十分にモノが言えず、主体性のない行動しか出来ない。
(4)会社という温室に育ち、外に出る自信がない
職業能力についてであるが、「社内でピカいちの能力だと思う人」は3%、これに「かなり力がある方だ」43%を併せると、社員の46%は社内での力に自信を持っている。
これが、異業種他社ではとなると26%、外資系会社ではとなると13%に落ちる。
転職したくても 自信がないということである。
つまり、現代日本のサラリーマンの多くは「日本的経営システム」という温室の中で過保護に育っている。
会社の中では、ビジネスリーダーといわれる人といえども「温室の中でのお山の大将」といえるかもしれない。
(5)能力再開発を逃げる
中高年の多くは、自分の能力はすでにピークに達していると思っている。
だが、能力再開発を逃げる真因は別にあることが多い。
即ち、過去の実績への甘えであり、部下に対しては弱味を見せまいといる見栄である。
そして、追いつめられてやっと、OAの勉強、転職のための能力再開発に取りかかる中高年が多い。
以上、変化に目をつぶり、時代に取り残され、能力再開発の負と自信を喪失している中高年サラリーマンが、今日の切迫した状況下でも数多く見受けられる。
中高年ホワイトカラーが生き残る方法
人材流動化時代が始まったというが…、
日本的雇用システムが大きくゆらぐと共にサラリーマンの会社への帰属意識はうすれ、転職志向は高まっている。
しかも、労働市場においても人材の流動化が着々と進んでいる。
しかし、中高年層の転職にあたっては、人材流動化の恩恵を受けるには大きな壁がある。
中高年にも高い転職志向
40歳以上の男子社員の4人に1人が「会社への帰属意識が薄れている」。
これは、日本経済新聞社が主要企業男性社員を対象に行ったアンケート調査の結果である。
「バブル崩壊前と比べ会社への帰属意識は変わったか」との質問に対し、3人に1人の35%が「今まで通り」としているが、「薄れた」とするものも5人に1人の19%いる。
こうした傾向の中で特に注目したいのは、40代の23%、50代の26%と、年代が上がるにしたがって「会社への帰属意識が薄れた」とする比率が高いことである。
これは、永年忠実に勤めあげてきた会社への不信感の表現であり、その根底にはリストラの要員になりかねない状況にある中高年社員の不安感がある。
次に、年齢別の転職志向を比較してみるが、若い人の転職志向が盲いのは当然だが、中高年層もけっこう高い。
40代で2人に1人の48%、50代で3人に1人の33%が、「自分の能力や適性が発揮できるならば転職したい」としている。
だが、中高年には厳しい現実
会社への帰属意識は薄れ転職願望の高まっている中高年サラリーマンだが、その再就職はすでに生易しいものではなくなっている。
目下の情勢は転職先が見つかればまだいい方で、あったとしても大幅の条件ダウンとなるケースが圧倒的だ。
大企業ホワイトカラーを例にとってみると、中高年の移動先は約90%が中小企業。
年収はだいたい20〜30%はダウンするといわれている。
現在、人材流動化時代が始まったといわれているが、これは若者についてあてはまることである。
50歳を境にしてそれより上の世代は転職条件はダウンし、それより下の世代はより大きな企業へ転職し賃金が上昇する傾向にある。
20〜30歳代前半まではこの傾向が特に著しい。
これは、転職市場とは本来若者を中心とした市場だからである。
つまり、賃金が低い若い層であれば、求職側からは賃金アップの可能性があり、求人側から見れば能力向上と生産性アップが見込め、そこで人材の流動化が活発になる。
ところが、中高年サラリーマンの場合はこうした条件が逆であり、中高年にとって転職は厳しいこととなる。
なお、20〜30歳代の転職肯定派は60〜70%。
転職への抵抗感のなし20歳代は現在でも転職経験率が40%、これが将来は80%にも達するという見方がある。
現在、将来共に人材の流動化は若者を中心として進んで行くものとみられる。
自己革新が転職成功のキメテ
現在、過剰労働力の受け皿として期待されているのが、成長分野の中小企業。
その中小企業は「大企業の中高年はいらない」という見方が大多数である。
労働者が中小企業を対象に行った調査によれば、中小企業の63%は「大企業でキャリアを積んだ40歳以上の人材(ホワイトカラー)を積極的には受け入れたくない」としている。
その理由の主なものは次の通りである。
(1) 前職(転職者の)にふさわしい賃金が出せない……56%
(2) 中小企業らしい幅広い業務ができない……46%
(3) 従業員との意識ギャップが大きい……44%
(4) プライドが高く使いにくい……30%
(5) 現在人材が不足していない……26%
一方、中小企業への転職者の選択の決め手となった条件は、
(1) 仕事の内容……23%
(2) 自分に対する期待度……10%
(3) えり好みの余裕がなかった……9%
(4) 会社の将来性……8%
(5) 社長の人柄……7%
(6) 給与・ボーナス……5%
などが主な選択ポイントで、給与よりも仕事の内容と自分に対する期待度が決定要因として上位にある。
中高年ホワイトカラーが中小企業など新しい職場で必要な人材になるためには、過去の栄光は完全にかなぐり捨てて、まず、自分自身を変えることからスタートすることが必要である。
具体的には、
(1)給与など雇用条件よりも仕事への情熱を第一とする
(2)前職のキャリア・専門性にこだわらず、1人何役をこなすなど未知の仕事にも積極的に対応する
(3)中小企業とその社員が持つ技術や仕事のやり方を学ぶ
(4)その上で、これまで大企業等で蓄積したキャリア・技術を最大限に活かし、新環境にふさわしい仕事づくりに挑戦する
ことである。
つまり、転職を機会に会社依存人間だった過去と断絶し、新天地で自分の足で立つ「自立」する自分を確立することである。
中高年サラリーマン、これでいいの?
サラリーマンの楽園は終わった
「お変わりございませんか」という言葉で始まるのが日本人の挨拶であるという。
会社人間サラリーマンの多くは、「少なくとも定年まで、出来れば定年が過ぎてもこの会社に残りたい」と願っている。
しかし、残念ながらこのサラリーマンの会社への安住の夢は無残にも打ち砕かれようとしている。
云うまでもなく、企業サイドの生き残るためのなりふりかまわぬリストラの波によってである。
ここで、大企業を例にとって企業リストラの構図を単純化してみよう。
高度成長からバブル期に至るまで企業経営規模拡大期には、例えば1,000名の人員増を必要としたとする。
その場合500名の自然減があるとすれば、新規採用は1,500名となる。
このケースでは膨張する組織に対応して部下のいる、あるいは部下のいない部門も含めて、年功によって役職を与えることが出来た。
しかし、大競争時代の現在は、遂に1,000名の人員縮小を行いたいとする。
この場合500名の自然減はあるとしても、500名の新規採用は行いたい。
したがって1,000名のリストラが必要となる。
現在、企業が余剰と考えている社員層の第一は中高年管理職層。
そこで、中高年対象の出向、転籍、さらには希望退職の勧奨がまず行われるというリストラの構図が出来あがる。
「会社」という名の「サラリーマンにとっての楽園」は消滅したのである。
「20代も解雇」リストラの厳しい現実
このリストラの対象は中高年ばかりではない。
次は20代、30代の若手社員に飛び火する懸念がある。
20代後半から30代を迎えるこの層は、いわゆる「バブリー君」。
多くの企業がバブル期に大量に採用した年齢層である。
社員の年齢構成的にも突出しており、早くから将来のポスト不足が課題となっていた。
この年齢層は会社からは自分中心型、会社に対する帰属意識が足りない層と見られており、リストラの対象となっておかしくない層なのである。
すでに早期退職優遇制度の対象を20代にまで拡大している企業が多くなっている。
こうした制度の対象となるのはまだいいほうで、水面下では配転、陰湿な人事評価・処遇なのでいびり出される若手社員も少なくないといわれている。
現実は厳しい。
若手社員といえども、今、中高年に押し寄せているリストラの嵐を対岸の火事などと云ってはおられない。
中高年生き残りの方向
若い人であれば、能力再開発、転職という新天地開拓など会社の中、会社の外を問わずやり直しの機会は多い。
しかし、中高年サラリーマンの多くは年功以外に特に取り柄もなく、能力再開発にも自信はないが、出来ることならば会社に定年まで残りたいと考えている。
一方、会社側からみれば最もリストラを行いたい社員層であり、外部企業からみればあまり必要としない人材でもある。
こうした中高年サラリーマンが会社に生き残るためにはどうしたらいいか。
そのためには、変化する企業環境、経営システムに対応して自己を変革することが出来るかどうかにかかっている。
それでは、中高年の自己改革はそんなに難しいものなのか。
リストラといっても、企業はそうそう簡単に社員は切れない。
専門外の部門への配置転換する、部下のいない閑職へと追いやる、系列会社への出向を内示するなどの対策がまずとられる。
そして、我慢できなくなって辞めて行くのを待つということになる。
逆に、この「ヒマ」になった期間こそ自己革新のチャンスとして転身に成功した事例もある。
かつては大手機械メーカーに所属し、現在は経営コンサルタントとして自立しているA氏のケースを次に紹介する。
A氏が、突然、それまでの技術畑から営業職へと飛ばされたのは、今から7年前の50歳の時。
技術メーカーのこととして技術部門が花形であり、これまで経験のない営業部門への異動は左遷である。
A氏はその時点では会社から窓際族として評価されていたわけであり、まさに青天のへきれきの大ショックといえた。
辞表を出すか、徹底的に抵抗するか、社命に従順に従うか、サラリーマンの選択肢はこの三つである。
辞めないことを選択したA氏は、左遷ともいうべき配置転換をむしろ人生にとって新たなチャンスととらえ、新しい職場で最善をつくすこととした。
そのためには、技術屋ならではの営業手法の確立と営業活動の展開が必要と考えた。
その結果、A氏が技術畑で蓄積したキャリアを最大限に活用することにより独自の営業システムを開発、抜群の営業実績をあげることができた。
ここで2年、A氏の前向きの姿勢と能力は高く評価され、今度は新設のユーザーに対するコンサルティング部門に社内スカウトされることとなった。
ここでは3年、経営コンサルティング活動のかたわら、中小企業診断士の資格を取得するなど自己啓発に努めた。
そして2年前、早期退職優遇制度を活用しでI昔しまれつつ退社。
経営コンサルタントとして独立。
経営指導、講演等で多忙な現在に至っている。
このケースは、それまでリストラ要員ともいえたA氏が、左遷ともいうべき配置転換を機会に自己革新。
社内でも高く評価され、外へ出ても独立できる「自立する」ビジネスマンへと脱皮したケースである。
依然根強い、中高年の会社依存志向
まず、サラリーマン全体の特性を分析してみる。
一般的には自己中心型などサラリーマンの脱「会社人間」化が進みつつあるといわれて いる。
しかし、自己中心型も含めてその意識の底流にはいぜん根強い会社への依存志向がある。
現代日本サラリーマン4つのパターン
サラリーマンの典型的パターンについて興味深い調査がある。
日本リサーチ総合研究所が行った意識調査である。
同調査は「企業帰属意識」(会社のためなら意識)と「時間拘束度」(会社への縛りつけられ度)の相関分析により、サラリーマンの代表的パターンとして4つをあげている。
(1) 会社中心型……典型的な「会社人間」であり、男性、特に30代以上、高学歴者に多い。
(2) 寄らば大樹型……恵まれたサラリーマンがその典型であり、大企業、公務員、管理職に多くみられる。
時間拘束度が低いのは大組織に属するためで意識面では会社中心型同様「会社人間」である。
(3) 自己矛盾型……厳しい勤めのサラリーマンということとなり、専門職、技能職、労務職、小企業に多いパターン。
仕事が生き甲斐派と現場労働者の2タイプがある。
(4) 自分中心型……若者・OLに多いパターン。
大企業、女性で年齢的には20代・30代に多い。
以上が、サラリーマンの代表的パターンである。
共通する会社への根強い愛着と帰属意識
このようにサラリーマンは4つのパターンに区分できるが、考え方の底にある企業への愛着と帰属意識では全くといっていいほど共通している。
日本リサーチ総合研究所調査は次のような結果を示している。
「今の勤め先に誇りを持っている」のは全体平均で75%。
会社中心型の85%は当然として、帰属意識が低いとみられる自分中心型でも74%、自己矛盾型でも68%となっている。
「勤め先のためなら多少不満があっても一致協力する」というのは全体平均で74%。
会社中心型は84%。
自己矛盾型でも73%、自分中心型でも64%と6割を超えている。
働くことへの考え方や行動に関係なく、多くのサラリーマンは会社に対して愛着や好意、貢献意欲を持っている「会社人間」であるということが出来る。
日本的雇用制度維持も各タイプ共通志向
会社人間である一方で、サラリーマンの転職願望は高い。
「チャンスがあれば転職したい」とするのは、全体平均で45%。
自分中心型で52%。
企業中心型・寄らば大樹型でも37%、33%と、3人に1人はチャンスがあれば転職したいと考えていることになる。
しかし、現在の日本的雇用システムには肯定的で、出来ればこのままずっとサラリーマンでいたいとする層が圧倒的である。
即ち、「終身雇用はこれからも続いた方がよい」とするのは全体平均で73%。
会社中心型は78%。
自己矛盾型は71%とやや低いが、自分中心型は74%で平均をやや上回る。
会社に対していろいろ文句を云う層でも、気楽なサラリーマンという身分でずっと過ごしたい願望が強いことを示している。
また、「年功賃金はこれからも続いたほうがよい」とするのは全体平均で71%。
会社中心型で75%、自分中心型でも70%と各タイプ共に高い。
企業側がこれまでの日本的雇用システムの見直しの動きが始まっているのに対し、サラリーマンサイドはこの制度の現状維持による生活安定を求める意識が高いことをこの調査は示している。
つまり、会社中心型から自分中心型に至るまで、サラリーマンの会社依存志向は共通だということである。
切り捨てられる中高年・会社人間
中高年サラリーマンの能力開発では会社側の見方から、能力向上や貢献度アップが余り期待できない中高年サラリーマンはこれからの人余り時代には不要であり真っ先にリストラの対象になる。 また、ならざるをえないことを示した。
これに対して中高年サラリーマンの現状はどうだろうか。
「他の人はどうなっても自分だけは大丈夫だ」という「開き直り派」
「将来は非常に不安だが、自分ではどうしたらいいのかわからない」という「自信喪失派」。
大部分はこの二つのグループに分類できるようである。
そこには、これから始まる大変な時代にどう対処し、自ら道をどう切り開いて行くかの発想があまり見られない。
サラリーマンの人生コースは変わる
以前、会社サイドから今後の雇用情勢と人事諸制度の変革の必然性を示した。
これを雇用されるものの立場に置き換えてみると「サラリーマンの人生コース」は大きく変わることになる。
サラリーマンの人生コースはこう変わる
これからのサラリーマンの人生コースをパターン化すれば、次のようになる。
�@ 企業内残留コース(グループ企業含む)
a 勝ち残りグループ……企業リーダー、ビジネスリーダー、高度の技術をもつスペシャリスト、社内ベンチャー、情報企画コーディネーターなどの少数である。
b 居残りグループ……かなりの雇用条件のランクダウンを前提に 再雇用、出向が許された社員群で年毎に少なくなる。
�A 転職コース
a ランクアップグループ……若い人には転職は雇用条件アップのチャンスともなる。
中高年の場合の条件アップは、他社からのスカウトの対象となるような選ばれた「人材」に限られる。
b ランクダウングループ……何の特徴もない中高年管理職、ホワイトカラーは相当のランクダウンを覚悟すべきである。
�B 独立コース
a 既存事業による自営業グループ……保有不動産の活用、フランチャイズ参加等により小売、飲食、サービス、レジャー等を事業化する。
既存の業種業態による自営業だけにリスク度は比較的低い。
b ベンチャーグループ……脱サラを機会にニュービジネスへの挑戦も一つの方向である。
環境が激変するということはそれだけに新規の事業チャンスが多いということである。
大きく発展する可能性があると同時にリスクもまた大きい。
�C オフ・ビジネスコース
これからは成熟経済と高齢化社会の時代である。
これまでの貯蓄、これからの年金、不動産収入などにより、「経済面で家族をも考慮にいれて“ほどほど“のくらしは出来る」という確信が持てれば、自分が本来求めている人生コースを選択するのも、これからの時代の選択肢の一つである。
このコースは人それぞれの人生観によりヴァライティに富むものであるが、その代表的パターンを次にかかげて みる。
a ボランティアグループ……これまで社会から受けた恩恵を、社会福祉活動、国際ボランティア活動などで還元する。
b 自己探求グループ……これまでやりたくても出来なかった研究、芸術、趣味などをライフワークとして探求する。
C 自然回帰グループ……農山村に移住し自然との共生を求めヱ(資料 9)サラリーマンの人生コースは大きく変わる
自らどう生きるか、選択の時
社会が変わる。 会社が変わる。
それに対応してサラリーマンの人生コースも当然変わらざるをえない。
今、最も確かなことは、変化の時代だということである。
予想さる変化に基づいて、中高年サラリーマンこれからの人生コースを上のパターンに整理してみた。
もう一つ確かなことは、一般サラリーマンの期待に反して、すで多くの会社は全てにおいて頼りきれる存在ではなくなっていることサラリーマンにとっての危機の訪れであり、これからどう生きるかいう「人生コースの見直し」の時でもある。
人生の見直し、再選択、再設計にあたって現代日本サラリーマンとって最重要なことは、会社からの「自立」である。
決して「会社をやめろ」ということではない。
会社がなくても生て行ける自分をつくりあげることである。
つまり、一つは変転する外環境に惑わされない「自律」する心の確立である。
そしてもう一つは、
「会社に対して自己を主張できる」
「転職・脱サラにより会社のに出ても食べていける」
ビジネスステージにおける「自立」であるこの自立という目標がなければ、これからの人生コースについて前向きの設計は出来ない。


