肉体のモーレツから精神のモーレツへ
中高年の間に、肩叩きから逃れるために「ほほえみうつ病」が広がっていると言う。
自分の弱味、不安感を隠すために、つくろってほほえむ「軽度うつ病」の一つである。
90年代初頭にも増して、これからの時代はサラリーマンにとってますます厳しさを増す。
会社は簡単に伸びないし、地位、ポストもかぎられてくる。
終身雇用もあと5年持てばいいほうだろうし、配転や出向も日常茶飯事化する。
会社大事の使命感を振り回しすぎる社員にかぎって、自分にとって不都合な人事に傷つき、会社に深い恨みを残すことになる。
一度厳しくなったサラリーマンの環境は、多少の景気回復などでは好転しないだろう。
景気うんぬんではなく、サラリーマンの存在自体に根本的変化の潮流が押し寄せているという乾いた認識が必要だ。
そうした局面では、精神のモーレツが要求される。
高度成長期は肉体のモーレツ時代だった。
経済の成熟化とソフト化、サービス化という産業構造の転換期には、肉体のモーレツより精神のモーレツを持たねばならない。
個人のハートのスタミナ、精神的なバイタリティが大事になる。
企業戦士といわれる人々は、働き盛りを高度成長期のなかですごしている。
肉体のモーレツな経験はしても、本当のピンチというものは経験していない。
だから、ハートのスタミナが乏しく、孤独にきわめて弱い。
環境の激変に遭うと、立ちすくんでしまうばかりだ。
いま中高年が直面し立ちすくんでいる大きな問題とは、忠誠心の空洞化である。
「なにごとも会社のため、会社あっての自分」という一社一心の健気な忠誠心が、平成不況で最後の一撃を受けようとしている。
実はこうした忠誠心は、オイルショック時や円高不況時の減量経営で現実的基盤を失いかけていたのだが、その後の平成景気で、労使ともその無用性を一時棚上げしていたものだ。
より正確に言えば、日本的企業風土のなかでは、この間題に触れずにおいたほうがお互いに気まずくならずにすむという事情もあった。
中高年の間には、ひょっとしたら事情が好転することがあるかもしれないという淡い幻想を抱いている人がまだいるようだが、それはまさに幻想にすぎない。
会社人間の健気さはよくわかるが、会社というものは、本人が思っているほど、「個人の会社思い」を評価しないものである。
多分に会社からなめられているところがある。
いいように会社に使われ、無事に勤め上げても「ご苦労さん」で終りである。
思えば、滅私奉公型の忠誠心が成長の推進力であり得た高度成長期は、サラリーマンの黄金時代であった。
だが忠誠心がそのおおらかさと純度を失い、生き残りのため、組織にしがみつくための処世術という、切ないいびつな形に変形してしまった。
日本の企業組織は、チームワークが非常に有効な形で威力を発揮した組織形態であり、サラリーマンは人間関係、それも集団の人間関係でほとんどの仕事をしてきた。
他人との差異をセールスポイントとし、自分は自分だというところが意外に少なかったし、またそういう人間はサラリーマン不適格の熔印を押されたりもした。
「協調」が貴ばれる社会ではよくあることである。
その結果、集団を離れての自分のための心の拠り所がサラリーマンにはあまりない。
自分というアイデンティティが非常に稀薄になってしまった。
だから、会社という他人様が与えてくれた課長とか部長、重役とかいった地位、ポストがアイデンティティになったり、会社の看板や名刺、バッジがアイデンティティになったりもした。
ハートのスタミナとは、別の表現をすれば他人様から与えられたものではない、自分流の心の拠り所、つまりアイデンティティをもっているということである。
会社と地位、ポストにしかアイデンティティがないというのは、心の防衛策としては最低、最悪である。
武装もせず、戦場に赴いているようなものである。
会社が倒産するしないは別として、そうしたアイデンティティとも呼べないような拠り所は、なにかの失態で一瞬にしてなくなってしまう。
たとえ自分と直接関わりのない失態であっても、管掌すべき地位にあれば、責任を問われて取り上げられかねない。
また、定年を迎えれば、会社という他人様が与えてくれた生き甲斐は当然お返ししなければならない。
恵まれた人は若干の猶予期間を与えられるかもしれないが、それにしてもいつかはお返しするものである。
日本のサラリーマンは、仕事が忙しいから、身体はある程度鍛えている。
勉強していないと生き残れないから、ある程度頭も鍛えている。
しかし、肝心の精神だけは、あまり鍛えていない。
バイタリティというのは、肉体的なものだけではない。
精神的なバイタリティというのも非常に大きい。
環境が厳しくなればなるほど、この精神的なバイタリティが大事になってくる。
精神的な強さは鍛えないと強くならない
身体はいじめられることによって鍛えられていく。
強いものになっていく。
精神面でも同様だと思う。
心も多少いじめて鍛えないと、丈夫にはならないし、スタミナもつかない。
保護し、真綿にくるむようにしていれば丈夫になり、鍛えられるという性質のものではない。
30代、40代の人間は、これから本格的ポストレス時代に生きなければならない。
ポストレスと言っても、いろいろなチャレンジの分野はある。
寄らば大樹の陰でやっていければ楽だが、どう考えても、もう寄らば大樹の陰のサラリーマンの時代は終わる。
30代、40代の人間は、いまのうちにピンチを経験しておくといい。
むしろ意識的に、2回とか3回とかピンチを引き受けたほうがいい。
あるいは、ピンチに遭遇したら喜んだほうがいい。
ピンチとは、自分を見つめることである。
自分を見つめるときははっきり見つめたほうがいい。
そうすることによって、ハートが強くなっていくし、ハートのスタミナが鍛えられていく。
自分が鍛えられていく。
ハートにスタミナがつけば、度胸も座るし、決断する際にも効力を発揮する。
判断力というものは、たいてい誰でも持っている。
そこから決断力に持っていくのが難しい。
決断というのは、ある一つの選択をすることで、他のすべての選択肢を放棄することである。
自分でもなかなか判断のつきにくいところに自分を賭けることであり、どこかに野蛮なところがある。
「決断とは、知力が冒険を呼び起こし、意志を発動させるものである」
クラウゼヴィッツはこう喝破している。
勝海舟は、これを肝識とよんでいる。
また、決断を実現させるためには、部下に対して、多少強引であってもねじ伏せていくような力がいる。
「知的腕力」「知的度胸」とでも言うべきものだが、その「知的腕力」「知的度胸」も、精神的に打たれていく過程でしか鍛えられない。
もちろん性格もあるだろうが、打たれ、痛めつけられていくことによって鍛えられていく部分が非常に大きい。
現代は、企業もサラリーマンも、目標やテーマを自分で発見する時代である。
規模の経済性が豊作貧乏を招いてしま単一巨大企業の時代は終わった。
作れば作るほど赤字を招き、重い足伽となっている。
汗水を流し、時間をかけた努力も、必ずしも成果とは一致しない。
これからのサラリーマン社会は、能力主義が一般的になるだけに、以前にもまして浮き沈みの激しい社会になっていく。
これからは、実力主義にふさわしい能力を発揮して伸びる人、いわゆる普通のサラリーマン、そして落ちこぼれの格印を押される余剰労働力の三種類に分類されていく。
同期といった枠を超え、地位の上下に縛られないサバイバルな「サラリーマン下剋上の時代」が本格的に到来する。
乾いた実力主義の時代とはいえ、日本的なメンタリティは一朝一夕になくなるものではない。
そして大部分のサラリーマンがあとの二つのカテゴリーに入るため、お互いの不安や嫉妬心はつのるばかりだ。
チマチマした視線がびっしりと張りめぐらされ、絡み合う社会になっていく。
そうしたサラリーマンは、会社にしがみつこうと、役にも立たない忠誠心ごっこのようなことをやり出す。
よけいに神経がくたびれる場面が増えていく。
チマチマしたサラリーマン処世の達人や、ただの能吏ほど話していて退屈な人種はない。
会社の看板や地位、ポストを取り上げられたらおよそ使い道のない人間ではつまらないではないか。
忠誠心などもう必要ないと会社が言ったら、もうそれでおしまいなのである。
私は、45歳のとき、たいていの中高年がそうであるように、年とった両親の世話と子供の教育事情で、やむなく名古屋へ2年間の単身赴任を経験した。
私の場合は、単なる転勤ではなく、左遷に近いものであった。
それも役員一歩手前で、階段から転げ落ちている。
この2年にわたる単身赴任は、いま思っても、自分の人生のなかでの大きな山の一つであった。
いつの間にかたくましくなり、自立心が生まれた。
仮に、私にハートのスタミナが多少ともあるとすれば、それはこの名古屋時代についたのだと確信している。
繰り返しになるが、これからはサラリーマンが個人として自立しなければならない時代である。
そのためにも、ハートにスタミナを早くつけて欲しい。
会社のなかで有効なハートのスタミナとは、心の防衛源であるが、一面で存在の
スタミナ、個人のレーゾン・デートル(存在理由)を保障するものでもある。
その意味から、社内でスタミナをつける以外に、サラリーマンには、やはりやってもらいたいことがある。
それは、外部の仲間社会や自分流のネットワーク、趣味、そういうもう一つのアイデンティティを持つことである。
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