ピンチに陥ったらどうするか
したたかなサラリーマンとは、絶体絶命のピンチを未然に防ぐ「逃げのテクニック」や「かわしの芸」を持っている。
しかし、いつもそればかりでは、なんのために生きているのか、なんのためにサラリーマンをやっているのかわからない。
ましてや仕事を通じての自己実現など及びもしない。
チャンスと見たら、やはりそこは突進していくべきだ。
ただやっかいなことに、チャンスというのは、決して安全な面ばかりを持つわけではない。
往々にして、ピンチとチャンスは重なり合っていることが多い。
そしてチャンスが大きければ大きいほど、待ち受けるピンチもまた大きくなる。
言ってみれば、コインの裏表のようなところがあり、そのコインにもまた大小があるということだ。
自分のサラリーマン生活を振り返ってみても、最も印象に残っているのはチャンスよりもピンチである。
ピンチのときこそ自分の勝負時であったということがわかる。
なにかを成し遂げて上昇気流に乗っているときの満足感はたしかに高揚した気分であるが、いつまでも続くものではない。
また、いつまでもその成功感に酔っていては、次の進歩もない。
順境しか知らない人間は意外にもろいものである。
昔から言うように、ピンチや逆境は人を練る最高の機会である。
ピンチをピンチとして受け止めれば、なにが自分にとって大事なことか、そして必要なことかが見えてくるし、度胸も座る。
頭の上げ下げ一つにしても変わってくるし、人への応対も真剣にならざるを得ない。
そうしたことを発見し、身につけることができれば、大きな財産にこそなれ、決してムダなものではない。
サラリーマンにはいろいろなピンチの場面がある。
仕事の成功など、確率的に計算できるものではない。
偶然とか成り行きとか、めぐり合わせなどの要素が非常に強いものだ。
思わぬ派閥抗争に巻き込まれることもある。
私のような左遷ということもあるだろうし、単に仕事がうまくいかないというときもある。
子会社出向とか、傍流に飛ばされるとか、不本意な配転とか、降格とか、単身赴任とか、それこそ山ほどのピンチがある。
そのときになにをやるか、これが勝負だ。
私は、左遷され、単身赴任したときは簡単にオタオタし、三ヶ月ほどは呆然自失の状態になっていた。
そのとき、この大ピンチをどうプラスに持っていくかということを私なりに懸命に考え続けた。
しばらく自分の評価は変わらない。
当分、最悪の評価が続くことは明らかだった。
ともかく仕事の分ということを心がけ、あとの暇な時間は読書に精を出した。
たしかにピンチは愉快なことではない。
サラリーマン生活をあまり知らない評論家や学者がきいた風なことを言っても、いざ自分がその立場に置かれたらどうなるか。
日頃説いているような高邁な論や処世のハウツーが実行できるだろうか。
おそらくオタオタし、陳腐な表現だが、目の前が真っ暗になってしまうのが普通だろう。
ピンチになったとき、頼りになりそうな上司に泣きついて禰縫策を打つ手もあるだろう。
派閥というものがあれば、そこに潜り込んでそれなりの保全策、保険を得るのもよいだろう。
それによって罪一等を減じられる幸運が舞い込むこともあるだろうが、ただそれだけしかないサラリーマンというのもつまらない。
自分というものがないと思えるからだ。
そういうときは、オタオタしてもいいと私は思う。
オタオタしてしまうのが人間というものだと思うからだ。
逆境のなかで大事なことは、自然体でいること、自分の感情に素直であることだ。
「大変なことになった」「あいつのせいでこんな目に遭った」「これからどうしよう」とかいろいろ考えながらも、その一方で「ここが自分の勝負どころ」という覚悟のようなものをどこかで持っていることである。
さめたもう一人の自分をもつことである。
その覚悟があれば、マイナスをプラスに転換することができる。
「伸びるために屈せよ」レーニンはこう言っている。
いまのピンチは、次の飛躍のための準備なのだと前向きに考えることだ。
自分の感情の流れをあまり無理してコントロールしようとしないほうがいい。
人間の感情など、そう簡単にコントロールできるものではない。
仮にうまくコントロールすることができたとしても、長期にわたってその状態を維持することは不可能に近い。
感情を理性でコントロールするというムリにムリを重ねるだけで、ストレはたまる一方、自分を見つめる視線が強い人ほどノイローゼとかに陥ってしまいかねない。
楽天性は、浮き沈みのはげしいサラリーマン処世をしぶとく生き抜くための、最も大事な資質である。
ピンチを迎えた原因には、運もあれば、派閥抗争もある。
能力的なものも考えられる。
単なる運であればさっさとあきらめるのが利口だし、派閥抗争に巻き込まれてピンチに陥ったとしても、お手並み拝見と行方を眺めているぐらいの余裕は持ちたい。
能力的なものであれば、まだ打つ手はある。
サラリーマンの能力とは、「これが能力です」と、ボンと取り出せるようなものではない。
実務的、機能的な能力と、性格的なもの、精神的なものの両方がある。
性格的なもの、精神的なものが実務能力の幅を広げ、広げられた実務能力が、再び性格的なもの、精神的なものにフィードバックされる。
二つの能力の総合、複雑なミックスがいわばサラリーマンの能力というものである。
サラリーマンの器量である。
こうした循環がどの程度できるかによって、本人の器量の大きさが規定される。
能力的なものでピンチになったときは、自分にはなにが欠けているか、どうすればそれが身につくかを冷静に考える好機となる。
欠けているものを補充し、一回り大きな器量持ちになればいいではないか。
ピンチになったときは、それを潔く引き受けるのも、これからのサラリーマンにとって必要なことである。
ある面では、ピンチは人間にとって大きなチャンスになる。
そこをどう克服するかが勝負になる。
なにも自分から好き好んでピンチを求める必要はない。
しかし、ピンチになったら、下手な悪あがきはやめて、そこはあっさり覚悟してかぶってしまったほうがいい。
下手な悪あがきは、それまでの人間関係をズタズタに引き裂いてしまう危険があるし、なによりも本人の精神に傷跡だけを残す。
人生80年時代ともなれば、これから浮き沈みは何回でもある。
たとえサラリーマン生活をまっとうしても戦いは終わらない。
もっと難しい局面が待っているかもしれない。
逃げて逃げて逃げまくることは不可能に近い。
サラリーマン時代にピンチに陥ったら、そのときのための勉強だと思えばいい。
サラリーマンの戦いにはいろいろな面がある。
なにも挑戦だけではない。
会社でなにもやらないことに耐えるのもまたひとつの戦いである。
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