ベテラン度に逃げ込むな
過去の知識や体験は陳腐化した
能力主義、実力主義と言っても、判定するリトマス試験紙があるわけではない。
また、ロールプレーイングのような擬似ビジネス、ビジネスのシミュレーションで程度がはかれるものでもない。
実戦ビジネスと練習とは、比較などできるものではない。
実戦は状況が一定均一のものではないし、解の有無もわからない。
応用問題をつねに解くようなものだからである。
マニュアルがあって、たとえばこう進めれば契約が取れるというようなシミュレーションとは本質的に違う。
実施に当たっても、絶対評価だけでいいのか、相対評価をある程度加味すべきか、目標管理制度にするかなど、ガラス張りで公平な評価制度にするにはどうするかという難問もある。
報酬と昇進の関係をどう位置づけるか、敗者復活戦をどう認めるかという問題もある。
ただ、時代の趨勢として、能力主義、実力主義への流れはもう止まらないところまできている。
私など、実力主義を本当に適用すべきは経営者ではないかと思っている。
管理職や一般社員にだけ実力主義を適用すれば、会社は安泰である、成長できる、あとは従来通りでいいということはあり得ない。
「日本の大企業のトップは経営者というより管財人である」という声もある。
ポストも賃金も増やせた高度成長期に就任したトップは、得られた富を平等に分配し、不平不満が出ないようにさえすればよかった。
そして、その方法論からなかなか抜け出せないでいる経営者がいまだに多い。
企業というものは経営者の舵取り一つでどうにでもなる。
経営者格差が企業格差をもたらし、企業の盛衰を決定する。
とくにソフト化時代というのは、経営者の能力差が歴然と出る怖い時代である。
どの業種も、どの企業も、生産怪を上げればヨコ並びで恩恵が受けられ、成長していける時代ではもはやない。
厳しい環境下にあるいま、経営トップに、この激しい潮流を引き受ける覚悟ができているかどうか、実力があるかどうかが、大きな問題となる。
一部のユニークな会社では、社長立候補制や上級幹部選挙制、さらには集団合議による年俸決定などを実行しているところもあるが、まだまだ市民権を得ているとは言えない。
企業とはしょせん時代適応業にすぎない。
同じパラダイム、同じ競争のやり方、同じ組織と人が10年も20年も通用するものではない。
ナポレオンでさえ、「10年ごとにリーダーと軍隊の編成を変えないとその軍隊は優秀ではない」と言っている。
社員の高齢化や低成長でやむなく企業が年功序列を崩すのではなく、むしろ年功序列を積極的に崩し、組織の若返りをはからないと競争に勝てない時代である。
変化こそ唯一の生き残り策と言ってもいい。
まして、現在のように変化の激しい時代には、昔風の組織と人の評価のやり方でやっていける企業などありはしない。
ベテラン社員であればあるほど、これまでの知識や経験が陳腐化している。
企業にとって、かえってマイナスになっている。
そして、会社のためという大義名分のもとに、サラリーマンにご託宣が下される。
「お前さん、もういらんよ」と。
古い組織にしがみついてきたサラリーマンは、肩叩きされて初めてカラッポの自分に気がつく。
サラリーマンOBとして、会社人間の辛いところはよくわかるつもりだ。
会社から冷たくされようが、しがみついたほうが本人のためにはいいと言いたくもあるが、しかしいつまでもそれだけではあまりに不用心すぎる。
サラリーマン冬の時代ということは、ある意味では、従来のサラリーマンの経験とか知識があまり通用しなくなった時代であると言うこともできる。
よく言われるように、戦争の技術や思想が変わったとき、古い職業軍人ほど無能ぶりを発揮する。
古い将軍たちは、前の戦争のイメージで新しい戦争にいどむ。
過去の成功体験が、災いしてしまう。
もう通用しなくなった自らの体験や物差しがまだ力を発揮すると錯覚し、新しい戦争を遂行しようとするからである。
それと同じ愚を繰り返してはならない。
現在の企業社会の最大の欠陥は、社会が大変化したにもかかわらず、組織の上のほうにかつての高度成長期のエースクラスが多すぎることである。
いわば、古い職業軍人社会のようなものである。
中高年が活躍した大工業時代には、企業の目標やテーマがはじめから決まっていた。
登るべき山がはっきりと視界にとらえられていた。
そして、彼らを中核に、全体の和と年功序列を重視してきたムラ社会的な日本の企業では、なにかにつけて過去の体験や物差しを頼りにしたケースが多かった。
というのも、そこでは従来技術のプロセス改良が要求された技術であり、過去の体験を手直しすることが最善の方法だったからだ。
製造現場だけでなく、オフィスでも、営業でも、古い物差しが大手を振ってまかり通っていたから、生産性と品質管理、一社一心の団結と全員の努力や士気の高さというような手段的価値が、企業の経営戦略に大化けできた。
しかし、経済環境が変わり、技術も価値観も大変化した時代には、これまでの競争原理が通用しなくなった。
キャッチアップ経済の時代は、アメリカといういいお手本があったが、成熟した日本経済にはもうお手本はない。
企業も、自らの手で、目標やテーマを発見していかねばならない。
新しい目標やテーマは、過去の体験や物差しでははかれない。
いきおい、トップダウンせざるを得ない領域がどんどん増えているし、ときには既得権意識の強いベテラン社員のいやがることもやらざるを得ない。
本音のところでは、トップも含めた組織の上のほうは、そうしたことはやりたくないのかもしれない。
彼らは、ほとんどが大工業時代のなかを潜り抜けてきた大ベテランである。
年功序列とそれいけどんどんでやってきた世代であり、その恩恵を最大限に受けた世代でもある。
社員に対して振るわれる大ナタが諸刃の剣であることをよく承知しているからだ。
学習廃棄で対応しよう
企業は人材で勝負する以外にない。
経済の成熟化と産業構造の大変化、技術の変化、高齢化社会と、過去の常識では解決できないような変化の大波が目白押しにやってきている。
こうした厳しい時代を乗り切るには、実力主義しかないということになれば、サラリーマンとしては適応しないとやっていけない。
仕事の内容、必要とされる能力の中身が変質してくるのであるから、これはサラリーマンにとっては重大事である。
年功序列と終身雇用が崩れ、だんだん乾いた実力主義の時代になってきたことを覚悟することが大事だ。
乾いた実力主義の時代には、まず、過去から現在まで持っていた常識ですべてをおしはかろうという考え方は捨てなければならない。
ベテラン度は万能ではないと知ることだ。
私など、経営のトップからまず自らのベテラン度を否定してみて、それでなにも残らなかったら引退すべきだと思っている。
それぐらいの気概が経営者にないと、いまの厳しい状況は乗り越えられない。
だが、そうした経営者はなかなかいないものだ。
過去から現在に持っていた常識で物事を判断しようとすると、未知に遭遇した場合、サラリーマンは辛い気持ちにもなる。
わけがわからなくもなる。
その常識とは、平たく言えば、ベテランは新人より偉い、なんでもよく知っているというようなことである。
先輩は後輩より絶対に偉いというのは、技術にイノベーションがなく、価値観が多様化していない時代を前提にしている。
技術がどんどん変わり、価値観がどんどん多様化していく時代には、ベテランが必ず新人より偉い、先輩は後輩よりなんでもよく知っているわけではない。
またコンピュータの発達で、ベテランにも新人にも、同じニュース、同じ情報が入ってくる。
つまり、賢さの規準に大転換が起きているのである。
「人間が賢くなるのは、経験によるのではなく、経験に対処する能力に応じてである」
イギリスの劇作家バーナード・ショーは、こう言っている。
中高年が持つべき賢さとは、アンラーニング(学習廃棄)できる能力である。
過去の知識や体験、獲得してきた物差しを、ある程度無用のものとして捨て去る知的度胸である。
世の中が大きく変わりつつあるのだから、もう通用しなくなった古い知識や体験を捨てていく努力をすることによって、初めて新しいことが学んでいけると考えるべきだろう。
ベテランのサラリーマンにとって、自分のベテラン度を否定してしまうのは苦痛だ。
そんなことをしたら、もう自分というものがなにもなくなってしまうように感じられるかもしれない。
しかしそのベテラン度をせめて%ぐらい疑ってほしい。
それをやらないと、企業の未来も、サラリーマンの未来もない。
単に会社だけでなく、自分にとっても、結局のところ不利になっていく。
これからのサラリーマンには、ときには自分のベテラン度を否定するだけの勇気がいる。
なんとか自分のベテラン度を否定されたくない、守っていきたい、自分のいままでの知識や体験を傷つけたくない、せっかくの既得権を逃したくないという意識が強すぎると、新しい戦争に適応できずに大きな被害を招いた古い職業軍人の二の舞になる。
すぐれた教師は生徒と知恵争いなどしないものだ。
自分が教えながら、一方で下から教えられていく努力もしている。
先輩は後輩よりも優れていると思い込み、下の意見を汲み取れない心の狭い人間は、会社をダメにするばかりではない。
自分の手で自らの存在価値を低めていく。
たとえば、部下からいい提案があってもそれを退けたり、部下の意見をまったく聞こうとしない上司は、自分の能力に自信があるからではない。
自分の能力に自信がないから聞けないのである。
狭い了見から、部下が自分より優秀であることを恐れるからである。
本当に自信のある上司は、違う。
普段から教えることをいっぱい持っている人間は、下から教えられることを怖がらない。
そんな小さなところで部下に勝たなくとも、もっと広いところで勝てばいいことを知っている。
下から教えられることを、あるいは自分のベテラン度を否定されるのを怖がらない。
「人に従うことを知らない者は、よき指導者になり得ない」(アリストテレス)し、「人は教えるうちに学ぶ」(セネカ)ものなのである。
ベテラン度を否定し、下から上がってくる意見、提案を喜んで開ける心の度量の大きさのようなものを持つことが非常に大事になってくる。
勉強とは、単なる知識の蓄積だけではない。
今日のような変化の時代には、陳腐化した知識や体験を自ら捨てていくアンラーニングも大事である。
古い知識や観念を一方で捨てていかないと、新しいものは学べない。
しかし、実力選別というのは、厳しいことかもしれないが、ある面では楽しいこともある。
人柄がよくて、気配りも十分だが、ちょっと能力に欠ける管理職を上司に持った部下ほどつまらないことにこき使われ、才能をすり減らしてきた。
正当な評価を受けることもなかった。
実力主義の時代ともなると、過去の尺度でははかりきれなかった能力を持つ人間、本当は実力がありながら不当な評価しか受けなかった人間も、堂々と表舞台に登場できる。
人間は、工場で生産される商品とは決定的に違う。
欠陥商品は商品として通用しないが、欠陥社員、不良社員などと格印を押されていた人間のその欠陥部分が必要になってきた。
ある大企業で、欠陥社員や不良社員ばかり集めて、ある大事業を成功させたケースがある。
従来の価値観ではマイナスとされた部分がプラスになる時代がきた。
アクの強い社員には、いよいよ自分たちの時代がやってきた。
最近、欠陥社員、不良社員と言われた人間が、思わぬ新規事業を成功させたり、またアメリカでは「組織のギャング」と呼ばれる社員がリエンジニアリングの実質的な担い手になっている。
際立つ個性、異質異能といった一見いかがわしい才能が、会社にとって財産となる時代なのである。
この面では残念ながら、アメリカのほうが進んでいる。
アップルの創業者スティーブ・ジョブスはヒッピーの元祖のようなものであり、マイクロソフト社を創ったビル・ゲーツはハッカーだった。
この二人の異才がIBMの牙城を切り崩した。
仮に、社内で思い通りにいかなくても、実力さえ磨いておけば、転職が転落を意味していた時代とは違う時代である。
敗者復活戦は社内だけでやる必要はない。
外に転職というパイがある。
戦う土俵が小さいものであれば、勝負はどうしてもチマチマしたものになる。
相手の動きを絶えずうかがうような陰気くさいものになってしまう。
戦う土俵が大きくなれば、勝負のスケールも大きくなる。
いざとなれば、外に出て食べていける実力があれば、社内で上と下の板挟みになって苦しむこともない。
時代のソフト化、サービス化が、役立つ能力、非凡な才能を持っている人には大きな活躍のフィールドを用意してくれている。
実力がなければ、いっときも早くその実力を身につけるよう努力すればいい。
サラリーマンの出世には、運不運もあれば、怪格の問題もある。
したがって、実力主義時代とは、チャレンジする土俵が大きくなったと前向きに楽天的にとらえたほうがいい。
日本的温情主義という変な精神主義が、会社を、そしてサラリーマンを多様な選択肢のないいびつな辛い立場に追い込んでしまっていた。
これからは、会社もドライならサラリーマンもドライ、お互いに恨みっこなし、と割り切ったほうがいい。
そうした契約の精神が、長い目で見た場合、お互いにプラスになる。
会社は問題をこれ以上先送りしないで思い切った戦略転換ができるし、サラリーマンも人生80年時代のライフスタイルの構築に踏み切れる。
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