中高年サラリーマンは知恵と感性を磨け、「今更…、」と思うな!
価値観の群化と大衆という概念が崩壊した情譜、ソフト化、サービス化時代は、極言すれば、個人の能力差がより鋭い形で、ドライに出てこざるを得ない。
そこでは、既存の組織や観念に縛られない人間のアイデアや発想力が大きな価値を持つ。
鋭い感性と他人と差別化できる知恵を持っている人は突出した存在になれるし、過去の知識にこだわったり、自分の感性を磨くことを怠った人間は先頭に立つことなど望むべくもない。
このドラスチックな変化を他人事のようにぼんやり眺めているサラリーマンは、確実に競争から取り残されていく。
いわゆる企業戦士といわれた人びとは、極言するようだが、知恵の部分をあまり鍛えない仕事の進め方でよかった。
過去の延長線上で仕事をすることを叩き込まれ、慣らされ、しっかり身についてしまった。
むしろ慣例がないこと、前例のないことはしてはいけなかった。
慣例のないこと、前例のないことは、みなアメリカがやってくれた。
明日を考える場合でも、今日の延長線上で論理的に発想していた。
いわば、足し算の世界で物事を発想していた。
しかし、いまはとんでもないところからとんでもないものが生まれ、時代をリードしていく。
論理よりも感覚的なものがないと、明日はもうつかめなくなっている。
論理は時代を解釈しかしないが、すぐれた感性は時代の全体像を把握する。
高度成長期は、努力と成果が一致していた。
決まり切ったものを作れば売れたし、儲かった。
大量生産し、販売に馬力をかければ売れた時代であった。
しかし、勝負どころが変わり、企業の生命線は、どう大量に作るかから、なにを作るか、いかにいいものを作るかに移っている。
努力のしどころが180度転換して、額に汗をして働く時代から、「心で汗をかく時代」になった。
サラリーマンのアイデンティティが、組織の一員であることから、個人としてどう生きるか、個人としてどう個性を発揮するかという変化を遂げた。
社員が知恵を出せない会社は生き残れないし、知恵を出せない社員は仕事を与えられない時代になってきた。
そうした現実を前にして、いままであまり知恵を必要とされず、管理と組織調整能力だけを磨いてきた管理職タイプは、右往左往せざるを得ない。
あれほど高度成長期をワッショィ、ワッショイと高声をあげてかけのぼった企業戦士が、知恵や感情の時代だといわれた途端、人変わりしたようにおとな36しくなっている。
中高年のサラリーマンは、いまさら知恵を出せと言われても、どうすればいいのかわからない。
問題処理には長けているが、問題を作っていく訓練はされていない。
いたずらに悲劇的になるだけである。
どうすれば知恵が出るのかと悩んでも、知恵とはこうすれば出るという性質のものではない。
哲学者でもないのだから、「知恵とはなにか」と考え込んでも答えは出てこない。
ましてや、「どんどん感性が磨ける」とか「どんどん知恵が湧いてくる」とかいったハウツー本に走っても、どうなるものでもない。
ところが旧人類である中高年には、これがなかなかわからない。
努力が黄金律であった感覚がなかなか払拭できない。
努力万能時代の考えからなかなか抜け出せず、まだ自分の努力が足りないのではないか、努力すればなんとかなるのではないかと思ってしまう。
そこでこれだけ「知恵の時代」や「感性の時代」と騒がれていながら、ついつい「地獄の特訓」のようなものに救いを求めるような方向違いのことをやってしまう。
感性や知恵の時代の特徴というのは、人それぞれの能力差や特技の違いのようなものをできるだけおおらかに認めることである。
それが、実力主義の時代の在り方である。
ところが「地獄の特訓」とは、その正反対の思想である。
能力的な差や人間的な差を否定し、鋳型に押し込もうとする。
ろくな睡眠時間も与えず、発想力や創造力が活躍する余地を狭め、自主性をうばい、小管理者イズムを植えつける。
知恵や感性が発揮されるはずもない。
知恵とか感性とは、前にも述べたように、個人的なものである。
ロボットではないのだから、まったくそれを持たない人間というものは存在しない。
程度の問題はあるだろうが、古い観念が重石になってその発露を妨げている場合もある。
自分には感性がないと決めつけてしまわずに、とりあえず、その重石を取り外してみることだ。
「会社は」という発想をやめて、「自分は」という発想に切り換えてみてはどうか。
簡単に言えば、好きか嫌いかをもう少し大事にしてみることだ。
多少は、自分の知恵と感性というものが見えてくるかもしれない。
しかし、もう知恵とか感性で勝負する自信はない、窓際もなんでもいいから会社に残れればいいという中高年もいるだろう。
仮にそうした幸運に恵まれたら、それで定年まで無為にすごすのではなく、その暇を有効に使って欲しい。
勤めている会社で暇になったら、いろいろと多方向の分野のことに挑戦して欲しい。
二足も三足もワラジを履けばいい。
窓際族がダメになるのは、会社で暇で、会社以外でも家庭でも暇がありすぎるからである。
窓際族でもしたたかな人は、会社では暇だが、外では忙しいものである。
けっして牙を抜かれていない。
オイルショックのときでも、そのへんがきちんとわかっていた人は、したたかに勉強していた。
ヨコの社会での忙しさを通じて生き甲斐を苦し、大学教授や有望な転職先へと移動していった。
そういう面で、タテの会社関係とヨコの社会のどちらでも忙しい人が、本当にしたたかなサラリーマンということになるだろう。
私は、中高年のサラリーマンには、「いかにこの時代を生き延びていくか」というしたたかさを大切にして欲しいと思う。
そして次なる二毛作人生へのステップをうまく踏むために、いまの生活のなかから、自分の生き甲斐を再発見する努力を惜しまないでやって欲しいと思う。
要は好奇心と人生にチャレンジする若さをいつまでも失わないことだ。
知恵や感性に、年齢はあまり関係がない。
感性豊かな人間とはそういうタイプである。
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