中高年ホワイトカラーの仕事の意識改革が必要
組織意識に決別する
ひと頃、「社畜」「社奴」とかいう言葉がマスコミを賑わした。
私は、この表現が大嫌いである。
多くは、「会社に唯々諾々と使われる人間になるな」という文脈で使われたが、サラリーマンは屈折した存在だから、
「私は社畜でございます。言われたことはなんでも致します」
と、ことさら自分を卑下してみせる人間も現れたりした。
また、こうした人間は中間管理職に多かったのも事実である。
しかし、これはほとんどがプリテンド(装い)である。
危険なところにはいかせないで下さいとか、あまり無理な仕事は押しっけないで下さいとかいった切ない保身願望の露出にすぎない例が多い。
だから、「この仕事は多分玉砕するだろうが、きみ、一つ死ぬつもりでやってくれ」などと言われたりすると、尻込みしてオタオタしてしまう。
人事異動で真剣に悩んでしまうのも、こうしたタイプである。
いささか楽観的に言ってしまえば、日本のサラリーマンには、自分が「社畜」であると本音で思っている人間などいないのではないだろうか。
会社人間、社閉症人間はいても、「社畜」はいない。
これが日本のサラリーマンである。
これと逆に、普段から「会社なんて骨を埋めるところではない」と広言し、「非拘束人間」を周囲に印象づけようとするタイプもある。
ただ、昔からよく言われるように、「辞める辞めると言って本当に会社を辞めた人間などいない」ものである。
こうした人間は、本音のところでは、「社畜」と自分を卑下する人間以上に会社を強く意識している。
古い組織観にとらわれている部分がある。
サラリーマンは会社あってのサラリーマンである。
それは確かなことだが、「社畜」と自分を卑下する必要もなければ、「非拘束人間」をあえて宣言する必要もない。
本当に自分に自信がある人間、仕事に自信があるサラリーマンはそうしたことを口にしないものだ。
大事なのは、現実に会社でなにをしているか、どういう仕事をしているかである。
また、「社宝」と言われるのもばかばかしいかぎりである。
よほどの例外でもないかぎり、プライベートな部分のほとんどを捧げ、自分を犠牲にしたうえでしかそうした表現にはたどり着かない。
「社宝」と持ち上げられたところで、自分の履歴に書くわけにもいかない。
もっとも、「社宝」などという言葉を会社が使うのは、定年退職を間近かに控えた上級管理職の永年勤続表彰の場合などが多い。
お別れの言葉であるから、経営者はどんなはめ言葉、美辞麗句を使っても、決して損をすることはない。
ここを先途とはめちぎって、仮に「オレもああ言われるような管理職になりたい」と思う単純な社員が一人でもいれば、まさに丸儲けである。
ともあれ、いま管理者像は大転換している。
かつて理想とされた管理職は、どっしりと構えていて部下に仕事をやらせていく、全員が仰ぎ見る、そういうマネジャー・タイプであった。
仕事にしても、部門間の調整力が高く買われた。
赤提灯などで「ま、いっぱい」とか言いながら、ヨコ並び意識をうまく利用して根回しをやり、稟議書を上げるテクニックの優劣が競われた。
そうしたことがきちんとできるのが有能な管理職とされ、尊敬もされた。
そこでは企業戦略、あるいは市場戦略をどうするかより、組織が優先されていた。
ピラミッド型組織維持のために和と談合が大事であり、社内に波風を立てない管理職が大事であり、全員を同じ目標に向ける才覚が管理職の才能とされた。
個人より組織に力点が置かれていた。
いま求められているのは、そうした組織意識、会社への求心力との決別である。
さらに言えば、自分の会社、自分の組織に波風を立てることのできる能力を持っているかどうかである。
組織意識からの決別は、自分にとって役立つだけでなく、会社にとってもこれからは大事になる。
「会社に忠実な人間」ではなく、「自分の仕事に忠実な人間」が会社を伸ばしていくからだ。
管理職ともなれば、なおさらである。
企業とは、本来そうしたものでなければならない。
仕事は仕事としてきちんとやる。
大切なのは部門間の調整や根回しではない。
ましてや、プリテンドや見返りを期待する心ではない。
どういう仕事をしているかという仕事の中身なのである。
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