必要なハウツーは自分の体験からしか学べない
日本の書籍出版量は世界でも有数だと言われているが、実務的なハウツーものもかなりの量にのぼる。
サラリーマンに必要な情報とハウツーものとは異質のものであると思うが、ハウツーものが書店のなかでこれだけの面積を占めている国は、聞くところによると、世界でも日本だけらしい。
日本では、それだけハウツー本を頼りにするサラリーマンが多い証拠かもしれない。
サラリーマンが情報産業社会を生き抜く知恵は、情報の分析力と解釈力である。
そこのところに誤解はないだろうか。
情報力とは、単に情報を集める能力ではなく、解釈能力をつけ、自分の意見をそこからどう築いていくかという能力である。
この点を誤ると、情報ノイローゼに陥ってしまうし、ただの物知りで終わってしまう。
情報が価値を持つ情報産業化社会では、情報力の個人差が待遇における個人差に直接つながる。
サラリーマンもその辺はよくわかっている。
ただし、依然として情報収集の段階にとどまっているサラリーマンがまだ多数だし、ハウツーものを読めば必要な知的武装はできると思い込む人もいる。
「他人の知識によって物知りにはなれるが、知恵者になるには自分自身の知恵によってである」『随想録』のなかのモンテーニュの言葉を、じっくり噛みしめて欲しい。
借り物の知識でも物知り顔はできるが、いざというときには役に立たない。
本当の知恵というものは、自分の血となり肉となったものでしかない。
ハウツーものがそれだけ多量に供給される理由は、それだけの需要があるということだろうが、なにかとハウツーものを頼りにしているサラリーマンには心もとないものがある。
ハウツーものばかりを読んでいる人間の頭には、まず「ホワイ」という疑問がない。
疑問がなければ、進歩もまたない。
型にはまった知識や手法が整理されてしまい、手続きにうるさいお役所の役人のように、ガチガチの会社人間になりやすい。
どうしても視野が狭くなる。
困ったときまでハウツーものを読むなとは決して言わないが、頼りにしすぎると危険である。
ハウツーものには、なによりも限界がある。
結論を先に言えば、たとえば「運」という要素をどうするかという点と、「現実とのギャップ」である。
まずは、運や相性の問題である。
人生のなかで運の占める割合は大きい。
小林秀雄は、「人はみなそれぞれ自分の性格に合った事件にしか出会わない」と言っている。
とくにサラリーマンというのは、運が大きく左右する。
サラリーマン社会とは、運の大きな渦のようなものである。
入社先を決めるときから、その運は回転し始める。
発展性を信じて入社したものの、その後、入社した企業が社会のニーズに合致せずに伸び悩んだり、斜陽産業の仲間入りしてしまうこともある。
入社後も、日本の企業のようなムラ社会では、たとえば上司適、業務避などといったいろいろな運が待ち構えている。
自分では選択できないたまたまのそうしためぐり合わせが、当人の将来を大きく変えてしまうことがある。
「世に伯楽ありて、しかる後に千里の馬あり」と言うように、いくら才能がある人でも、上司にその才能を見抜く力がなければ陽の目を見ない。
また、人間というものは、自分の能力以上の能力はなかなか発見できないし、認められないものでもある。
「自分はわからないから」と任せてくれる上司にめぐり合ったサラリーマンは幸運だ。
自分より能力があるとわかると、嫉妬心や猫疑心も生まれやすいし、対外的に「ダメなやつ」というレッテルを貼ってしまうことも少なくない。
逆に、慧眼に出会い、自覚していなかった才能が開化することもある。
業務面でもそうだ。
たとえば、前任者の時代は脚光を浴びなかったある事業が、交替した途端に時代の要請で強力なバックアップを得られたり、新技術開発、新製品のヒットなどで花形事業になってしまう例はよくある。
運も実力のうちとはよく言うが、そうした予測不能の事態がサラリーマンの世界ではつきものだ。
それがサラリーマンの面白いところでもあるのだが、反面、辛いところでもある。
だから、実務的なハウツーものと同じぐらい、「運を呼び込む」とか、「運をつかむ」とか、「運の強い人間になる」といったハウツーものが幅を利かせもするのだろう。
しかし、そんなもので強運な人間になれないことは言うまでもない。
ハウツーものの第二の限界は、現実とのギャップである。
現実は公式の集合ではなく、未知の応用問題に満ちている。
言ってみれば、つねに初体験の連続である。
交渉でも人とまったく同じ状況、まったく同じ人間関係はあり得ない。
また当事者同士がまったく同じ能力の持ち主ということもない。
本当に役立つハウツーとは、あくまで自分で作っていくしかないものなのである。
運と現実とのギャップ。
そこにハウツーものの限界がある。
だから、実務面のハウツーものの知識だけではどうしようもない部分が多い。
必要なハウツーは、やはり自分の体験からしか学べない。
体験から学ぶということは、単なる知識として頭で学ぶだけでなく、身体で学ぶことを意味する。
自分だけのノウハウとして学ぶことであり、行動を起こす際の判断基準として体得するということである。
ただ、二十代、三十代というのは経験もまだ不足しており、自分流のハウツーを作れる状態にはない。
スキルがまだ不十分であり、実戦の一兵卒にすぎないから、他人のハウツーのいいところを取り入れ、実務的な能力をいかに伸ばすかの年代である。
だからスキル中心でやればいい。
二十代、三十代は実務書をしっかり読むことである。
そしてそこからスキルを身につける。
たとえば、管理技術やマーケティング、経理の専門知識やコンピュータシステムをマスターするとか、外国語を覚えるとか、スキルの面を徹底的にマスターしたはうがいい。
四十代ともなれば、もうそれは許されない。
その齢になっても、まだハウツーものや、ビジネス書のベストセラーを一生懸命読んでいるようでは、とてもいい齢をしたサラリーマンの知的武装にはならない。
その齢になれば、ハウツーではなく、自分とは異なった意見を持つ外部の人間や、古典や歴史などの持つ知恵から学んでいたい。
「四十以後はすなわち五大陸につながることあるを知る」(佐久間象山)とまではいかなくても、四十代ともなれば、自分で自分なりのハウツーを作る作業は終っていなければならない。
- どう勉強すればいいのか、
- 人とうまくつき合うにはどうすればいいのか、
- ピンチのときはどう対処すればいいのか、
- 数字はどう読めばいいのか、
- スムースに仕事を運ぶためにはどこを押せばいいのか、
- さらにどうしたら出世できるのか、
そうしたものをたくさん頭の引き出しにしまっていなければならない。
個人として生きるうえでの情報を集める サラリーマンの器量とは、実務的なものと実務的でないもの、効率を目ざすものとムダなもの、そういった背反的な知識と体験が織り上げる。
その幅が広いほど、器量も大きくなる。
そして、非実務的なものが、個人としての魅力を形成する場合が多い。
四十代とは、実務的知識やハウツーを詰め込むのではなく、そうした非実務的な知識が要求される。
もう応用問題を自分で解く時期である。
単に応用問題を解くだけではなく、できれば、応用問題を作っていなくてはならない時期である。
そのためには、異質の情報や体験に出会い、思考の弾力性を維持していかねばならない。
会社人間、それもエリートほど、どうも実務的に傾きすぎるきらいが強い。
時間がないと新聞しか読まない人が多いし、その新聞の読み方一つとっても、実務的な色が濃い。
いわゆる仕事一筋の新聞の読み方である。
たとえば新聞を見て、これはビジネスチャンスになるとか、他社はここまでやっているのかとか、この経営手法は役立ちそうだとか、やり方を変えないとわが社も危ないのではないかとか、自分の仕事や会社に引きつけていろいろ思いをめぐらせる人が圧倒的に多い。
新聞とは、言ってみれば、単なるニュースの集大成である。
ニュースの底流にある社会の変化や時代の風向き、流行や価値の多様化に多少鈍感でも売れるものである。
いまなにが流行って、なにがブームになっているのか。
その点では、新聞はあまり参考にはならない。
私は、新聞を読むなと言っているのではない。
新聞も必要だし、ビジネスマンである以上、実務的な読み方も必要だろう。
その一方で、それは個人として生きていくうえでの情報とは違うものだ、と思うところが欲しいと言っているのである。
実務家としての情報と、自分が誇りを持つための情報とは基本的に違う。
旧人類の知識は、あまりにも新聞に偏りすぎる。
四十代、五十代の人は、もっと週刊誌や雑誌を活用すべきだろう。
雑誌は時代の変化、読者のニーズの変化に敏感である。
週刊誌や雑誌は、時代のトレンドを最も鋭く反映している。
まず、新聞を丹念に読む。
そして、週刊誌・雑誌を併読してみる。
漫画雑誌もばかにしてはいけない。
とくに二番煎じではなく、他誌ではやっていないような連載には注意したい。
線香花火的な単なるアイデアで終わってしまうかもしれないが、電車のなかで若者が熱心に読んでいたりしたら要注意だ。
そうしたタウンウォッチングから、意外なヒントが得られたりする。
週刊誌しか読まない奴はばかだが、週刊誌を読まないサラリーマンも間が抜けている。
週刊誌は現代の動きや流行の最先端をつかもうとする。
いま消費者がなにに興味を持っているのか、これから先の動きを推理してみるのも面白い。
ただし、週刊誌も、知的なヒントや安らぎを与えてくれはしても、自分が個人として生きるうえでの情報はなかなか与えてくれない。
そこで私は、四十代以上の人には、古典や定評のある本を読みなさいと勧めている。
実務家としての情報の大小と価値観、そして自分が個人として生きるうえでの情報の大小と価値観。
現代とは、その両方がサラリーマンに必要になってきた時代だと思うからである。
とくに個人的なものがこれからのサラリーマンは求められている。
そういう面では、古典や歴史、あるいは定評のある本を読むのがよい。
古典というと、すぐ中国や日本の偉人・賢人の類いが頭に浮かぶが、別にそうしたものでなくてもいい。
古典というのは、定評の定まった本、歴史の遺産であると言っていい。
当然のことながら、読書に王道などない。
好みの本、読書法、そこから学んでいくものなど、個人個人によって千差万別である。
それらを全部含めて、要は、自分なりの読書法を身につけることである。
読書でなによりも大事なことは、それが楽しみ、趣味であるというところだろう。
楽しみで読んでいれば、自己啓発のハウツー本より、はるかに自己啓発になる。
自分のサラリーマン時代の反省も込めて言うのだが、四十代、五十代の旧世代の会社人間は、自己啓発や充電に関して、かなり中途半端な存在だ。
企業の集団的社員教育で鍛えられ洗脳されてきたために、充電とか自己啓発とか言われるとどうしていいかまずアタフタしてしまう。
休みの日には、ボケッとしてなにも考えずに、好きな本でも読んでいればいい。
読書にあきれば、ゴロ寝でもするに限る。
ゴロ寝は真面目の活性化である。
疲れた中高年は、おおいにゴロ寝を楽しめばよい。
ゴロ寝をサラリーマンの最低の趣味にしてしまったのは、効率と合理化を至上とした工業化社会の価値観だ。
その悪しき名残りにしかすぎない。
ぼんやりとした時間をもち、ユニークなものの見方・考え方を育てることこそ、高度情報化社会における効率というものである。
非効率の効率が情報化社会なのである。
ただし、読書のためにもゴロ寝のためにも、せめて自分だけの書斎は持ちたい。
住宅事情から言って、一室を書斎に当てるというのはなかなか難しいかもしれない。
であれば、屋根裏でも、物置小屋の一隅でもいい。
これなら、女房に文句を言われることもないし、掃除のたびに移動する必要もなくなる。
自分の城をもつ意義は、別にもある。
仕事も遊びも集団が大好きな会社人間は、孤独にきわめて弱い。
人生八十年時代である。
定年後でさえ、あと一山も二山もある。
孤独におびえていてはなにもできない。
自分の城を持ち、たてこもる習慣が身につけば、そのうち一人でいることにも慣れ、孤独におびえることもなくなる。
孤独とつき合う術のようなものが、少しずつわかってくる。
さらに孤独からなにか楽しみのようなものを発見することもあるだろう。
そうなれば、古女房から「濡れ落葉」などと軽蔑されなくともすむ。
四十代ともなると、感性の面でも創造力の面でも、サラリーマンはいろいろすり切れ、くたびれているところがある。
そういうものをリフレッシュさせるために、読書が嫌いな人は、郷土の史跡を歩いたり、陶器を見たり、絵を見たり、好きなことをやればいい。
そうすることによって、自分が生きる道というものも少しは見えてくるし、新しい発想もできる。
感性というものも広がっていく。
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