こんな管理職は滅びる
「察しの文化」はもう終わった
環境が厳しくなり、自己啓発のためにも勉強の必要性が高まっている。
しかし、「勉強が必要なことはわかっているし、その気持ちもある。ただ、忙しくて時間がない」と言う管理職も多い。
サラリーマンはたしかに忙しいが、忙しくて勉強する時間がないというのはフィクションにすぎない。
削ろうと思えば削れるムダな時間などいくらでもある。
その最たるものが、会社でのつき合いである。
管理職や会社人間は、会社でのつき合いや人間関係にのめり込みやすいし、むしろ自分から進んで忙しくしている面が非常に強い。
旧人類は「察しの文化」で育ってきた。
察しの文化とは、共通の体験と価値観が織。
上げる文化である。
毎日同じメンバーとしかつき合わないムラ社会独自の行動原理のようなものである。
日本のサラリーマン社会はムラ社会であったから、明噺な論理よりも察しのよさが貴ばれた。
腹芸のできる人間が重宝がられ、察しのよさがイコール頭のよさのよぅなところがあった。
世話役タイプが幅を利かせたのも、そうした理由による。
また、新入社員も入社三ヶ月もすると、「うちの会社は」と言い出し、それが一人前のサラリーマン意識の芽生え、組織への帰属心のように認知され、ムラ社会へ加わる通過儀礼のようにされた。
「うちの会社は」の大合唱のなか、仕事も遊びも会社の仲間と遠となり、察しの文化を維持する儀式、確認が盛んに行われた。
なかには、休日まで、まだ会社の仲間と会いたがるいささかホモ的な傾向が尭すぎるサラリーマンもいる。
サラリーマンは人との違い、差異を怖がる傾向が強い。
だから、会社でのつき合いを大事にした。
会社でのつき合いとは、ムラ社会の「察しの文化」にどっぷり漬かることでお互いを確認し、安心感を得る儀式である。
だが、これから求められる企業社会の人材とは、人との差異をあまり怖がらない人材だ。
端的な例が、会社でのつき合いや人間関係にのめり込みすぎない人間である。
孤立ではなく、自立したサラリーマンでなければならない。
と言っても、サラリーマンのつき合いや遊びを軽く見ているわけではない。
マージャン、カラオケ、一杯飲み屋とつき合いにもいろいろあるが、ストレス解消のためのつき合いや遊びは大事なことだ。
それと、ムラ社会の頻繁なつき合いとを同一視してしまわないことだ。
サラリーマンは自分流のストレス解消法を持つべきである。
ストレス解消が下手な人は、今日のようなストレス社会では確実に脱落していく。
なにも遊びをしない真面目人間ほど、ノイローゼになったり、うつ病になったり、出社拒否症に陥ったりしてしまう。
そうした事態を避けるためにも、現代のサラリーマンにはストレス解消は欠かせない。
グチもストレス解消法には有効なひとつだろう。
サラリーマンはグチ民族、ボヤキ種族である。
「サラリーマンはグチをあまりこぼすな」というような説もあるよよだが、私はグチをこぼしたことのないサラリーマンはあまり信用しない。
なにもやらなければ、グチもこぼれない。
グチをこぼす前には、そのサラリーマンはなにかをやったという前提がある。
グチをこぼすようなことをやってこそ、サラリーマンはー人前である。
そしてそのグチが、新たな闘争心の苗床になればいい。
ただし、同病相憐れむようなグチこぼしでは、情けないという気がする。
ゴルフというのも、サラリーマンの好きなストレス解消法だろう。
ただゴルフに関しては、3K削減のあおりを受けて会社の接待費で落とせる範囲も狭くなってきているし、おまけに日本のゴルフ場の会員権は、外国ではゴルフ場が買えるほど高い。
バブル当時「銀座で接待するぐらいなら、ゴルフのほうが安上がり、それに健康にもいい」という考えが、猫も杓子もゴルフに駆り立てた側面があるが、最近、法人向けのゴルフ場は人が閑散としている。
東京周辺では身銭を切ってゴルフをやれば、二回で3〜4万円はふっ飛んでしまう。
ゴルフはふつうのサラリーマンのストレス解消代としては高すぎる。
猫も杓子もゴルフというのは、交際費に寄りかかった日本のサラリーマンの典型的な構図だと言えるだろう。
それに、同じストレス発散の目的でゴルフをするのなら、会社以外の気の合った仲間とプレーするほうが、はるかに目的にかなう。
ラウンドしながらも会社のことを話題にし、部下を話題にし、業績に思いを馳せていたのでは、かえってストレスをよけいに抱え込んでしまうだけだ。
ストレス解消のために会社の仲間とすごす時間が欲しいとすれば、せいぜい一週間に1、2回で十分ではないか。
極端な話、昼食後のコーヒータイムで十分可能である。
だいたいが、一時間で話が終わらないようなグチならば、それはもう積極的なグチではない。
あえて言えば、グチのためのグチのようなものだ。
「きみも大変だね」と言ってもらいたいために、自分の置かれた境遇を自己正当化しているようなものだ。
ストレス解消の策は、なにも会社の同僚がいなくてもできる。
ヒーリング・ポイント(癒しの場)は、自分一人でも発見できる。
仲間が欲しければ、会社の人間が知らない自分が主役になれる酒場でも見つければいい。
そこで会社以外の仲間を見つけたほうが、はるかにストレス解消になるというものだ。
話がそれてしまったが、サラリーマンはたしかに忙しい。
だが、会社の都合にふりまわされていただけではあまりに空しい。
やる気になれば、勉強する時間などいくらでもある。
誤解を恐れずに言えば、忙しいふりや会社への忠誠心ごっこ、察しの文化への奉仕をやめれば、そのための時間はいくらでも捻出できる。
会社での察しのコミュニケーションは大変なエネルギーを必要とする。
それだけでもうへトへトになってしまう。
まともに勉強する時間などとれるわけがない。
しかし、新人類の登場で、察しの文化はもう崩壊している。
新人類はそうした文化を拒否しているし、はっきりしたコミュニケーションを求めている。
言ってみれば、「直視の文化」を求めている。
新人類とのコミュニケーションは、ノンバーバル(非言語)なコミュニケーションでは成立しない。
もう少しきちんと言葉を使った論理のコミュニケーションを心がければ、中高年と団塊の世代が、一杯飲み屋で察しの文化の黄昏を嘆くことも減る。
夜の暇な時間などいくらでもできる。
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