生き甲斐の多様化が遊びの第一の効果
中高年を含め、われわれは、人生五十年時代のライフスタイルは持っていても、定年後あと10年、20年の仕事と生き甲斐を自分で見つけ出さねばならない人生80年時代のライフスタイルを確立しているとは言えない。
いまそうしたライフスタイルの確立が、早急な課題として大きく浮上している。
二毛作目、あるいは第二ラウンドを生き抜くためには、40代から大いに充電しないといけない。
定年でヘトヘトになって、産業廃棄物のようになってしまえば、あとは自分をバーゲンセールするしかない。
待っているのは、「滞れ落葉」しかない。
要は、生き甲斐をどう多様化させるかということである。
その近道として、遊びを考えたい。
新人類は遊びが上手だし、遊び感覚、遊び心も十分に持っている。
中高年も、ほどほどの遊び人間になりたいものだ。
遊びが充電の近道だ。
遊びもしないで、人と同じことをしてこと足れりとする勤勉な怠惰タイプは伸びない。
古い会社人間ほどこうした勤勉な怠惰タイプが多いが、そうした人間は新しいものを吸収しないし、古いものも捨てていかない。
情報にもまた疎い。
この種のタイプの社員が大いに役立ったのは、変化のない時代である。
同じことを10年も20年もやり、それで帳尻を合わせてベテランになっていく時代にはいちばん強かった。
しかし、今日のような変化の激しい時代には、このタイプが会社にはマイナスになる。
自分にも不利になる。
これからのサラリーマンには遊びが必要である。
趣味や遊びの効果は、まず生き甲斐の多様化につながるということである。
会社人間という言葉がいみじくも物語るように、会社一途のサラリーマンは、仕事も遊びも会社の仲間と一緒であることで安心感を感じる。
みんなが一緒であることでしばしの安堵感を得るが、会社を離れてしまうとたいした生き甲斐を持っていない。
人はいやなこと、自分に都合の悪いことは先へ積み残し、後回しで抱え込んでいきたいものである。
先憂後楽ということは頭でわかっていても、なかなか実行できないものである。
しかし、だんだんそうも言っていられなくなる。
いよいよ切実切迫になって、心の防衛術や、生き甲斐だけは自分で見つける以外に道はないことに、サラリーマンが気づき始めてきた。
たしかに、なにかと言えば中高年の排除を考えたり、団塊の世代を過剰なサバイバル競争でおどしあげる安易な企業姿勢にも問題がないとは言えない。
だが、サラリーマンも、「自分はわき目もふらずに頑張り続けてきたし、努力もしてきたのだから、会社のほうも……」という甘えの心、おんぶにだっこの依頼心は、もうこの辺で、勇気を出して断ち切るべきだろう。
会社がサラリーマンの生き甲斐をすべて保障してくれるというのは、高度成長期の一種の幸運な共同幻想にすぎないと諦めてしまうことだ。
実際のところ、日本的経営の強さのコアを忠誠心と見なし、この忠誠心の稀薄化を日本企業の活力低下傾向であると心配する経営者もいる。
しかし、多く言われる忠誠心の中身とは、「組織に寄りかかろうとする精神」であることが多い。
この場合は、生き甲斐らしきものが簡単に見つけられる。
しかし、自分で作ったものではないだけに、砂上の楼閣のような生き甲斐である。
降格や左遷で、それがいったん裏切られたりすると、古いタイプの会社人間ほど自己分裂状態に陥り、ひどいときはノイローゼになったりしてしまう。
会社人間が自分で生き甲斐を作らず、会社に生き甲斐を保障してもらってきたツケが回った結果のノイローゼとも言える。
核心から目をそらし、問題を先送りしても、なんの解決にもならない。
会社という他人様から借りた生き甲斐、あるいは家族・子供からお借りした生き甲斐は、いずれ他人様にお返ししなければならない。
いずれお返しするものであるだけに、これは年を取れば取るほど辛いものとなる。
いずれ定年を迎える。
定年ということは、孤独になるということでもある。
その時に、会社以外に生き甲斐がないというのでは、なんとも心もとない。
その日のためにも、自分だけの生き甲斐を会社以外に見つけておくことが大事だ。
だが、それだけではない。
遊びは一見ムダに見えるが、サラリーマンをしぶとくさせる。
会社のなかでしたたかに生きているサラリーマンを見ると、遊びの好きな人、遊びの上手な人が非常に多い。
人生で、自分の思い通りに進むことは少ない。
遊びをやる人は、その点を知っている。
自分の思い通りにならないことがあると知っていれば、駆け引きも上手になる。
ここは少し静かにしたはうがいい、引いたほうがいい、ここは逃げたほうがいいと、いろいろなことがわかってくるものだ。
そういう面で、遊びを知っている人は、サラリーマンの機微に非常に強い。
したたかさの発揮どころを知っている。
また、遊びの場は情報の場になる。
情報は人が持っているものであるから、遊ぶ場を持って人と会う機会をたくさん持っている人には、基本的に情報がたくさん入ってくる。
仕事に直接関係のない遊びや趣味仲間が、実は貴重なアイデアやヒントを与えてくれることも多い。
だから遊びの余力を持っている人が強い。
遊びの価値は非常に大きい。
単身赴任者の悲劇がよく話題になるが、これも遊びや趣味がないことと無関係ではない。
身近に家庭がないから、仕事から他への頭の切り替えが容易にできない。
つき合いも会社の部下や同僚が中心になりがちだし、寂しさも手伝って、知らず知らずのうちに24時間会社人間になってしまう。
休日には時間を持て余し、なにもせずにボケッと終わってしまえばまだいいが、ついつい仕事のことを考えてしまう。
ついには、休日出勤までするようになる。
単身赴任者こそ、まず豊かな遊びの時間、趣味の世界を持たねばならない。
単身赴任者にかぎらず、仕事のしすぎは、心身の防衛のためにも、会社仲間とのよきコミュニケーション維持のためにも、かえってマイナスである。
よきコミュニケーションは、いつもべったりであるからといって保てるものではない。
適度な距離と、適度な回数、適度な時間がなければならない。
遊びにランクはない
翻ってみれば、サラリーマンの宮仕えをしんどくさせているのは、実はほかならぬサラリーマン自身である。
サラリーマンが互いに相手を嫉妬し、互いの行動を規制し合っている。
こうしたご時世にもかかわらず、三人に一人がサービス残業をしているというデータもある。
月21時間以上のサービス残業をしている人が約2割もいるというから驚きである。
有給休暇の低消化、労働時間の短縮にあまり関心を持たないことなどは、サラリーマンが自分で自分の首を締めている典型的な例だ。
そこにあるのは、自分が休めば他人に迷惑がかかるという殊勝な気持ちばかりではないはずだ。
休めば、自分の地位、ポストが蒸発していってしまうような不安、人格を否定されるような不安を抱いているからである。
裏返して言うと、他人とおよそ変わらない仕事しかしていない、他人と同じ価値観しか持っていないということの証明である。
会社から格別の知恵も感性も要求されない、となると、極端な話、忙しごっこと忠誠心ごっこで他人と差別化し合い、競争し合うのがいちばん簡単で効率がいい。
労働時間がつい長くなってしまうはずである。
遊びが大事と言っているが、別に働き蜂を否定しているわけではない。
遊びとは、本人が楽しくなければならない、喜ばなければ意味がない。
だから、仕事が遊びになっても一向に構わない。
それが楽しければ、一生懸命やればよい。
ただ、仕事にブレーキをかけるべきときは、むしろ思い切ってブレーキをかけ、遊びや豊かな趣味に時間を割くべきであると言いたいだけである。
そしてその際は、遊びにランクをつけないことだ。
もともと遊びには上下のつけようなどないのだが、読書や芸術は一流、スポーツは二流などと、上下の順序をつけたがるのが滅私奉公世代でもある。
あえて遊びにランクをつけるとすれば、自分の好きなことが最上位に位置するだけである。
遊びというものは、やってみるとわかるが、実は大変な作業である。
それも創造的な、他人があまりやっていないことをやろうとすると、大きな苦労がいる。
「創造」とは自分を賭けて行うことであるから、思わぬ障害に出くわすこともある。
また、そうした障害があれば、それを乗り越えたときの充足感も大きい。
なにをすればいいのかわからない人には、地域のグループ活動を生かす手もある。
そうしたグループに参加してもいいだろう。
また、自分の遊びや趣味がある一定の域に達したら、それを他人のために役立てることも可能だ。
たとえば、静岡県に「余暇プランナー制度」というものがある。
県民の余暇に対する理解を促進し、余暇活動を支援するため、相談に乗ったり情報発信する「余暇名人」制度である。
活動費も出ないが、企画も実施もプランナーが自主的に行う。
資格は、人に教えられる趣味を持っていることというだけである。
また富山県でも、「ゆとり名人」制度が発足している。
こうした制度は、まだかぎられているが、浸透し始めれば相当なスピードで普及するだろう。
「余暇名人」になれるような趣味を持つ人と、まったくそうした趣味を持たない人とでは、生き甲斐に天と地ほどの差が生じてしまう。
伊能忠敬は、田地持ちで商人であったが、隠居後の50歳になって、本格的に地理や天文学の勉強を始めている。
これを高度な趣味、遊びとしてやったのである。
そして、72歳まで日本全国を踏破し、日本初の測量地図を完成させている。
仕事は誰でもいつでもできるものだ。
これからのサラリーマンは、むしろプライベートな時間の使い方で勝負が決まる。
自分なりの価値観や、もっと奥行きの深い生き甲斐を持つべきだろう。
40、50にもなって、まだ会社で集団でワッショイワッショイやるだけがとりえではどうしようもない。
自分の足で歩く訓練が大事だ。
それができていない会社人間は、この人生80年時代、必ずどこかでつまずき、遭難してしまうものである。
難しいところは、サラリーマンが豊かになる公式がないことである。
お金とか地位とか、家族といったものをある公式に代入すれば、豊かな人生、生き甲斐という解答が出るものではないということだ。
生き甲斐はプロセスであり、積み上げていくものである。
自分で生き甲斐を作っていく過程そのものである。
はっきりこれが生き甲斐と決められる人もあるだろうが、まずたいていの人は自分で自分の生き甲斐を作るということは、試行錯誤しながら積み上げていく努力に他ならない。
自分で生き甲斐を作っていく過程は、いま流行りの言葉で言えば「人生のリエンジニアリング」ということになるだろうか。
四捨五入して言えば、リエンジニアリングとは高度情報通信機器を活用して仕事のプロセスを抜本的に変え、劇的な業績の向上をはかることである。
提唱者のM・ハマーとJ・チャンピーは、それを「既存のものを修正したり、基本的な構造には手をつけずに漸進的な変化を起こすという意味ではなく、初めからやり直すこと」と定義している。
しかし、人生にはそれは無理な相談だから、「再設計」「改革」というぐらいに考えてみてはどうだろうか。
人生のリエンジニアリングとは、初めから「やり直す決意」で、これからの自分の人生というプロセス変換にこの瞬間から臨むことである。
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